◎赤い月
「もし、お嬢ちゃん」 学校からの帰り途、ふと呼び止められた朝子は男の風体にぎょっとした。 黒マントに古めかしげな黒い山高帽、鼻の下には立派な髭が生えていて、目には丸いレンズの眼鏡をかけている。まるでインチキ手品師か都市伝説の怪人のようだ。 「な、なんですか?」 「ふふん、君があんまり美しいものだから、僕の宝物をあげようと思ってね」 そういうと男はマントの裏を探りはじめた。朝子はいざとなったら逃げようと身構えたが、男の取り出したものを見て、思わず構えを崩してしまった。 「…それは?」 「これはね、月の裏側をみるための望遠鏡だよ」 一見すると万華鏡そのものだった。両端に黒い枠のはめられた円筒は、側面を藍色の地に三日月や星の意匠でお洒落に飾られている。 「今でこそ人は宇宙に行ったり来たり、ロケットや人工衛星なんか打ち上げたりして、月なんか珍しくなくなったさ。だけどね、空を飛べなかった昔の人はあの球体を見ていろんな想像をしたんだ。いつも同じ顔をしているあのお月様が、宇宙には一体どんな顔を向けているのかってこともね」 男は続ける。 「そこで或る魔法使いが、遊び心でこんなものを作ってしまったのさ。科学も魔法のひとつではあるが、この世界にはもっともっと下らなくておっかない魔法が沢山あるんだ」 男の言葉を、朝子は口をぽかんと開けて聞いていた。いつもと同じように学校を終え、いつもと同じように帰宅しようとしている。それがこの男が現れて、あっという間に非日常になってしまった。筒に描かれた顔のある三日月が、一瞬キラリと光ってウインクしたような気がした。 「さあ、月を覗いてごらん」 云われるままに、朝子は夕暮れの空に上がった白い球体に向けてその円筒を覗いた。 「あれ?」 望遠鏡の向うには真っ赤な景色が広がっていた。 「真っ赤だわ」 男は髭をさすりながら首をかしげた。 「ん?そんなはずはないよ。もう一度みてごらん」 朝子は再び筒の縁に目をつけた。ところがやはり真っ赤な光景が広がっているばかりである。よくよくみると、中心には白い玉があり、そこから赤いものが木の枝かひび割れのように伸びているのだった。赤い枝のひとつが微かに動いたような気がした。空に見える無機質な表情からは想像もつかないくらい、それは怪物じみていた。 「気持ち悪い!これが月の裏側なの?」 朝子は望遠鏡を男に押し付けると、慌てて駆け出した。その様子を呆然と見送った後、怪訝な顔をした男はたった今手にしたその筒をじろじろと眺めた。それから俄に嬉しそうな顔でニヤっと笑って、朝子の駆け出した方向に向かって大きな声で言った。 「ああ、そういうことか!これじゃ見えないはずだよ。お嬢ちゃん、君はこの望遠鏡を逆さに覗いたのだからね。たった今君がみていたものは、君の眼球の裏側だったのさ!」
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