◎あけるな


「いいかい、この箱は絶対開けてはならないよ」
横からの陽の光に顔の半分だけを橙色に染めた祖母は、青畳の上に置かれたその箱を指差しながら言った。いつもは優しい祖母が、今ばかりは微笑み一つない顔でその低い声を私に投げかけるので、見知らぬ誰かのような気がして一寸怖かった。
箱は一辺六尺もあろうかという大きな立方体である。人一人ならば入れそうだ。全体に青い和紙が貼り廻らされており、その蓋のところは私の読めない難しい漢字が書かれた紙で封印されていた。私の生まれた時には箱はもうこの家にあり、小さな和室をあてがわれた箱はそのど真ん中に陣取って、静かな時をずっとこうしていた。
「この箱の中にはね、この家の守り神様がいらっしゃるんだよ。神様のおかげでこの家は栄えているんだ。お前のお爺様が無傷で戦から帰ってくることが出来たのも、お前のお父様のお仕事がうまくいっているのも、全てはこの神様が見ていて下さるからなんだよ。大切にしなけりゃならない神様だ。いいかい、神様は人に見られることがお嫌いなんだ。絶対開けてはいけないよ。絶対に」
祖母はそれだけいうと、またいつもどおりの優しいおばあちゃんに戻って、
「さあ、かおるちゃん。そろそろご飯になるから行こうね」
と言うや、正座していた足を億劫そうに立ち上げた。祖母の手で閉じられてゆく障子の隙間から箱をみつめていると、障子と障子が当たるその時、和室の中からガタン、という大きな音がした。耳が遠くて聞こえていなかったのだろうか、それとも聞こえぬふりをしたのか、祖母はその音に振り返りもせず、私の手を引いて居間へと連れて行った。

あの日以来、私は箱の中身が気になっていた。今までは家にある置物の一つとしか思っておらず、さほど興味もなかった箱だが、祖母の「開けてはいけない」という一言が私の好奇心に火をつけたのである。鮮やかな青色の箱に入っているものを、私はあれこれ想像した。祖母のいうように本当に神様が入っているのだろうか。ひょっとしたら絵本に出てくる鬼や妖怪が住んでいるのではないだろうか。あの舌きり雀の意地悪なお婆さんが手にした重い葛篭のように。
何度も何度も箱を開けたい衝動に駆られ和室へと入りかけたが、そのたびに優しい祖母の顔が般若の如く変わる様が想像され、私の足は箱までたどり着かずして後戻りしてゆくのだった。

大好きだった祖母もそれから数年して死んでしまった。私は高校生になっていた。祖母の通夜、見たこともない親戚の人達と祖母の思い出を語り合っていた時、自然と話が例の箱へと移っていった。
「ばあさんが大事にしてたみたいだけど、あの箱はなんだい?」
「さあ、でも随分古いものらしいねえ。あたしたちも子供の頃、開けようとするとよく母さんに叱られたものだよ」
「私がおばあちゃんから聞いた話は、あの箱の中にはこの家の守り神がいるそうですよ」
各々が知っているだけの情報をあれこれと出し合っていると、部屋の隅のほうで日本酒をあおっていた男の人が、こちらへやってきた。
「何なら今、開けてみようじゃないか」
赤い顔の男の人は呂律の回らない舌で一言、そういった。
「だけどね、あんた。もし本当に神様の祟りとかがあったらどうすんだい。それにばあさんが終生大事にしていたもんだしよぉ」
「そうよ。もし万が一ってこともあるじゃない」
「はっ、祟りなんかこの科学の時代にあるわきゃねぇよ。それにあんたらも気になるんだろ、ばあさんの箱の中身がさ」
「それは、まあ、そうだ」
「一寸だけならおばあちゃんも許してくれるかも知れないわね」
「うん、一寸だけならね」
「そうだな。一寸だけなら」
「一寸だけ、一寸だけ」
私は何も答えなかったが、考えることは他の人と同じだった。私たちは小さな和室へと赴いた。
「これがばあさんの箱か」
「こいつとも随分久しぶりだな」
「よし、開けてみるか」
叔父がゆっくりと紙をはがし、酔った男の人が蓋を取る。私は罪悪感と好奇心に苛まれながら、その薄暗い箱の中を覗き込んだ。

箱の中をみた誰もが信じられないという顔をしていた。蓋を取った男の人も今はもう酔いが覚めて、顔が赤から青に変わっていた。
神様が入っていると祖母の言っていた箱。その中に入っていたのは、別の部屋に置かれた棺の中で安らかに眠っているはずの、祖母自身だったのだから。
正座していた足を億劫そうに立ち上げた祖母は、その場に居る全員の顔を一通り見渡してから、こう言った。


「開けるなと言ったのに」

◎モドル◎