◎髑髏の家
嗚呼、蒸し暑い。
歯医者からの帰り途だった。 前々から痛かった前歯をようやく金歯にしてもらい、そろそろ麻酔の切れてきた歯を頬越しに押えながら陽炎舞う夏の午後の通りを歩いていた。 この通りもだいぶ整理されてきた。だが路地裏に無造作に置かれている煤けた煉瓦や、片方の脚の欠けた男をみるにつけ、数年前の地獄のような日々を思いださずにはいられなかった。私の歯の痛みはすぐに治まるだろうが、この町の負った傷の痛みは当分止みそうにない。
こんな暑い日には路端に人でも倒れやしないかと思いながら居ると、電柱の根元に一人の女が蹲っていた。 さて、あの婦人を助けるべきだろうか。今の時勢、良かれと思って斯様なものに関わるとろくな目に遭わない。 だがしかし女は非常に苦しそうだった。見かねて路を横切り、電柱へと駆け寄った。
「大丈夫ですか?医者を呼びましょうか」 声をかけると女は今にも死んでしまいそうな声で大丈夫です、と答えた。だがどうみてもそうは思えなかった。汗を多分にかいている割に、女の額は真っ青だったのである。 私は女の背中を抱えつつ、近所の公園の桜の木の下の日陰になっているところへと連れて行った。 自転車のアイス売りからアイスキャンデーを一本買うと、女に食べさせた。やがて真っ青だった顔には少しずつ赤みが差しはじめ、おぼつかない様子だった女の瞳がこちらを向いた。 「あ!タカシさん」 私に向かって知らぬ男の名を叫んだ。まだ意識が朦朧としているのだろう。 「しっかりなさって下さい。私はタカシなどという人ではありません」 無駄なことと知りつつ否定するも、女は聞き入れない。 「私を忘れてしまったのですか。あれからノボルさんと二人、どれだけの長いことあなたのお帰りを待ち侘びたか知れませんのに。でもそんなノボルさんもあなたが行かれてからすぐ兵隊にとられてしまいました。そしてノボルさんのほうが先にあちらへ行ってしまったのです」 息の切れそうになりつつも、女は強い口調だった。 「ノボルというのは誰なのです?」 「嗚呼、実のお兄様も忘れておしまいになるなんて。あの戦争が、あなたの記憶もお兄様の命も何もかもを奪ってしまったのですわ」
面倒なことになった。 女は私のことを義弟のタカシという人物と勘違いしているらしい。おそらく、私とその男とは背格好や顔立ちやら、雰囲気がよく似ているのだろう。それでもって女の意識はまだ完全ではない。悪い条件が重なってしまったゆえの悲劇だろう。 いますぐにもこの場から逃げ出したかった。だが、病気の女をこのままにしておくことは出来ない。 「歩けますか?」 尋ねると、女は生まれたての鹿の子のようによろよろと立ち上がった。女を家まで送っていくことにした。
「嗚呼、ノボルさん、タカシさんが帰ってきましたよ」 玄関につくなり女が言った。 かなり立派な門構えだ。恐らくは古い家だろう。ここら辺りは空襲ですべて焼けてしまったと思ったのに、これほどの大きい屋敷が傷ひとつなく残っているとは思わなかった。 女は私の腕を離れ家の奥に駆けていった。途中で振り返り、 「何を遠慮しているのです。ここはあなたの家ではありませんか」 帰りたくなった。だが黙って帰るのも悪い気がした。それに、そのうち私がタカシでないことも分かるだろう。履物を脱いで女のあとを追った。
家の造りのせいか、客間は妙に暗い。 近所から子供の騒ぐ声も聞こえて来ず、庭では風鈴だけが死にそうな声で鳴いている。この静けさ、涼しさ、外とはまるで別の世界のようだった。 女は私の制するのも聞かずに茶の用意をしている。心もとないのでふと上をみると、天井の暗闇の中に横一列に人の顔が並んでいてぎょっとした。それは旧い家によくある先祖の写真だった。如何にも偉そうな髭面の老人の顔が並ぶ中で、一番新しい写真は軍服を着た若者だった。これがノボルという人だろう。女の話から、この前の戦争で亡くなったのだということは分かった。 「思い出しましたか」 女が湯飲みを差し出しながら言った。 「お兄様に良く似ていらっしゃる。あなたたちは双子だったのですよ。私もこの家に嫁いで来て、あなたとノボルさんをよく間違えたものです」 成程、言われてよくよくみてみれば、確かにこの写真の人物の顔は私にそっくりだった。輪郭の形、目や鼻や口の並び方、左頬のホクロまでが同じなのには驚いた。だが私がこの男の弟でないということも紛れもない事実であった。 「あなたを期待させてしまい申し訳ないのですが、先ほど申しあげた通り、私はタカシさんという方ではないのです」 「嗚呼、やはり簡単には思い出しては下さらないのですね」 湯飲みに口をつける。乾いた口内が潤うと同時に、針で刺したように前歯に痛みが走った。 「ああ、そうだ、そうだわ」 女は私と写真を見比べると、また部屋から出て行った。戻ってきた女の腕には白木の箱がある。 「ノボルさん、タカシさんですよ」 蓋を取り、中から紫の布に包まれたものが取り出された。女の細い指が丁寧に覆いを剥がしてゆくにつれて、私の予感が真実になっていった。 それは人間の頭蓋骨だった。 眼球の入っていない眼窩、鼻のない鼻腔。その真下には真っ白い骨の中でもとりわけ白く小さな部分が並んでいて、そのひとつが金色に輝いていた。 「嗚呼、これでまた家族で暮らすことが出来るのです。ノボルさん、タカシさん」 口元に薄笑いを浮かべながら、焦点の定まらない目が私の顔をみつめた。いつの間にか白い塊は増えていた。 「ノボルサン」 全身に柔らかい圧力が覆いかぶさってきた。腿にも、胸にも、そして唇にも―――
もう逃げようとは思わなかった。 私の身体は、これから迫ってくるであろう苦痛と快楽を待ち望んでいた。
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妻は今日も出かけていった。 私の双子の弟である孝司を探しにゆくのだという。止せというのに聞く耳を持たぬ性格は、私たちが夫婦になる前から変わっていない。 兄弟揃って出征したものの、帰ってきたのは私だけであった。あいつは果たして何処へ行ってしまったのだろう。とうの昔に復員してこの国のどこかで元気にしているのだろうか。或いは……
妻が帰ってきた。 玄関から二人分の足音がする。とうとう妻はあいつを見つけることが叶ったのだ! 私も久々に弟の顔をみるのが楽しみだ。否、確かに私とあいつは同じ顔をしているが、私はもう自分の顔を鏡でみることが出来ないし、その見る顔もなくなってしまったのだ。 今に妻が来てこの箱から出してくれることだろう。 嗚呼、箱が揺れる。久々の弟は、私よりも歳を取った弟は、この姿をみたらどんなに驚くだろう。
光の射し始めた箱の中で、もう痛くない前歯を鳴らしてカタカタと笑った。
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