◎蛍
久々に故郷へ帰って二日目の晩に懐かしい友人と出会った。ちょうど蛍の出る頃だったので、僕は家族が寝静まった深夜、近所の橋まで散歩がてらに蛍を見に家を出たのだ。すると橋のみえるところまで来た時、欄干の手すりの上に誰かが座っているのがみえた。僕にはそれが誰なのかすぐに分かった。 本当に何年ぶりのことだろう。懐かしさに顔が綻ぶ。あちらのほうでもすぐに僕に気づくとにっこりと笑い、それから欄干からぴょこんと橋へ飛び降りるとこちらへ手を振ってきた。 「こうちゃん」 僕は駆け出した。 「ふふ、じゅんちゃん久しぶり。ほんとにあの泣き虫だったじゅんちゃんなの?すっかりおじさんになっちゃって」 「へへ、おじさんだなんてやめてよ。これでもまだ学生なんだからさ。まったく、こうちゃんには一生かかっても敵わないよ。それにしても、こうちゃんに会えるなんて思いもしなかったよ」 こうちゃんはまたふふっと笑った。 「でもあたしじゅんちゃんだってすぐ分かったよ」 「僕だって向こうから橋を見たときに一目見てこうちゃんだって分かったよ。だってこうちゃん…」 言いかけた言葉を唾と一緒に飲み込んだあと、僕ら二人は並んで欄干に腰掛けた。久々にこんな子供じみたことをしてみるも、川を覗き込むと尻の辺りがぐらぐらするようでなんとなく怖かった。 「今晩は蛍がみられるかな?」 僕はこうちゃんの方をみながら言った。おかっぱ頭に白いワンピース。小学校の時とまったく変わらないこうちゃん。ただ林檎みたいだった頬は色を失い、顔は青ざめていた。 「あっち」 こうちゃんの白く小さな指が指す川の上流のほうには、緑色にぼんやりと光るものが三、四つ、ゆらゆらと柔らかな曲線を闇に描いていた。 「あれ、これっぽっちしかいないのか。昔はもっと沢山いたのに…」 「じゅんちゃんが東京へ行ってから川に工事の人がきて土をもりかえしたの。きっとそのときみんな死んじゃったんだわ」 こうちゃんの声は悲しそうだった。それから二人とも黙ってしまった。深夜だからか、橋の上には車も人も通らない。風もなく、ただ川のせせらぎの音だけがぷかぷかと聞こえてきた。 先に静寂を乱したのは僕だった。 「……こうちゃんはさ、いつまでここにいるの?ほら、ええと、普通の、その、あれはさ、行くんだろ、その、あの」 「ふふ、へんなじゅんちゃん」 こうちゃんはげんこつで口元を隠しながらくすくす笑った。 女の子のくせに喧嘩が強くてクラスの男子には「オトコオンナ」なんて呼ばれてたけど、僕にだけはこんな風に優しい笑顔をみせてくれた。そんなこうちゃんがちょうどこの橋の上で車に引かれて死んでしまったときは、信じられなくて泣くことも出来なかった。葬式から一週間くらい経って、教室の花瓶の置かれたこうちゃんの机をみたとき、僕はいじめっこに上履きを隠された時よりももっと悲しくなってしまって、クラスメートの前で大泣きしたのだ。たぶんこうちゃんは知らないと思うし、こんなことこっちから言いたくもないけど。 「しらない」 こうちゃんは答えた。 「どうやっていけばいいのか分からないの。でも気にしてないわ。あたしこの川がすきだから。人が通るのを一日中ぼけっとみてるだけでも飽きないものよ。じゅんちゃんのほか誰もあたしに気づいてくれないけどね。でも犬はあたしをみて吼えてくるよ。そんな時はいいこいいこって頭をなでてあげようと思うんだけど……やっぱ駄目ね。あ、みてみて!」 何十という優しい緑色の光が川の上空を舞っていた。話に夢中で今まで気づかなかったが、先ほどまでは遠くにいた蛍が、今は橋のほうにも来ていた。蛍は僕の肩で翅を休める。蛍はこうちゃんの胸のところに飛び込んで、それから何事もなかったかのように向こうへすり抜けてゆく。 「こんなに沢山みられたのは久しぶりよ。あたしもびっくり!」 「僕も驚いたよ。上流の工事してないとこから流れてきたのかも知れないね」 「ひょっとしたら、じゅんちゃんが帰ってきたのをお祝いしてくれてるのかも」 「あはは、そうだといいけど」 僕たちはいつまでも蛍の群れをみていた。
すずめの声がするまで、僕は朝になったということに気づかなかった。こうちゃんに出会ったことや蛍の群れをみたことがまるで数分前の出来事のようにさえ思われた。隣にいたこうちゃんの姿はもうなかった。 おぼつかぬ足取り橋を引き返すと、たもとに錆びついた缶と、そこに萎れた花が数本挿してあるのがみえた。夜は暗すぎて気がつかなかったのだ。萎れた花の先には一匹の小さな蛍がしがみついていて、尻の先を弱弱しく点滅させていた。 僕は蛍の足を指に掴ませると土手の草叢に虫をそっと放してやった。それから誰にも聞こえない声で小さくつぶやいた。 「さようなら。こうちゃん」
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