◎影絵の町
人跡未踏の「骨の砂漠」と呼ばれるこの地に「影絵の町」がいつごろ生まれたのかは定かではない。 我々の知識の中にこの町が登場するのは、今からおよそ二百年前のことである。 ヘビツバメの一群とともに町を渡り歩く行商が、砂嵐の為に道を誤り、偶然足を踏み入れたのが最初の発見であった。 行商は影絵の町の人々との二週間ほどの交流を日録にしたため、外国産の多くの珍しい品物とともにこの国へ巡ってきた。彼のひと時の店へ偶然一人の老歴史学者が訪れたことこそが、この国にその町の知れることとなったきっかけであった。行商の日記が博士の解説つきで活字にされるや、たちまち多くの者がこれを買い求めた。いつしか「影絵の町」の存在はほぼすべての国民の知れるところとなったのである。 行商の日記を追ってゆくと、影絵の町の様子はおよそ次のようになっている。
「……吾暴風に遭ひ道を失ひて骨の砂漠を彷徨ひたるままに、偶々一つの町に入る。この町、四方は砂漠なれど水に富めり。中央に噴水ありて、絶えず淡水を噴く。木々花々数多生ひ茂り、虫もまた多し。家屋は土造乃至石造にてあれど、悉く空家にて手入れなし。半ば瓦解しけるものもあり。さながら廃墟に似たり。この町の人異様なるは、皆影のやうにて身体に厚みなし。蜥蜴の如く、砂地、壁を這ひて歩く。道具、家畜、衣服も然り。主なくしてただ陰ばかりなり。人みな建物の陰を行き交ひ、夜ともなれば家屋の陰に入る。吾瑠璃の港で購ひし品々を贈るも、その陰ばかりを愛でて実体は受取らず。この様、さながら「影絵の町」とぞ呼ぶべき……」
すなわち、この町の住民は実体のない影の身体でいるらしい。それどころか、この町のものは家畜なども含めてほぼ全てが影のみの存在なのだという。俄に信じがたい話であり、国民の中には疑うものも多く居た。 ところが、行商の持ち帰ったひとつの証拠によって、「影絵の町」の存在は決定的となったのである。 それはひとつの壷だった。一見何の変哲もないただの薄汚い壷であったが、白昼の露店でそれを目撃した博士はひどく驚いた。壷には影がなかったのである。 日記の如く、この壷は元は行商が「瑠璃の港」で仕入れた品物の一つだった。彼は自分を迎え入れてくれた人々に対して感謝の気持ちを示そうと、この壷を含めた様々な道具を影絵の民に贈った。ところが、彼らはその影だけを引き剥がすと、感謝の言葉を述べつつ道具をすべて商人に返したのだという。この国に入る前に珍しい影のない道具はほとんど売れてしまったが、この壷だけはかろうじて残っていたのだった。 博士はすぐさま壷を買い受けた。現在は王立博物館に他の様々な珍しい道具と共に飾られているそうだから、見たい者はいつでも見ることが出来る。薄暗く陰気な部屋の中、その壷だけが浮遊しているような、実に不思議な感じがするそうだ。
この一件以来、この国でも不思議な「影絵の町」を探そうとする者たちが跡を絶たなかった。何処からともなく、まるで砂嵐の如く立ち昇った噂、すなわち「『影絵の町』には莫大な財宝が眠っている」という噂もまた、人々の冒険心に火を着けたのである。 発見者である行商自信、どのようにして町に入りどのような道を辿って戻ってきたのか覚えていない以上、誰もが恐れるあの「骨の砂漠」をひたすら歩いて探し求めるしか行き着く術はないのだ。 今まで五回ほど探検隊が結成され(その一つは国王の命によるものだった)砂漠へと派遣されたが、帰ってきた者は駱駝も含めて誰もいなかった。一度商人たちの道から外れれば、あたり一面どこもかしこも砂の海原である。運がよければ動物や人間の白骨死体が視界に入るが、それは彼自身の未来の姿だ。 こうして多くの旅人たちが砂上に倒れ、哀れな野晒しとなった。「骨の砂漠」という名も、人々の骨が風化して砂漠の砂の一部となることからつけられたのである。太陽が沈むと、ホシカゲロウたちの翅音に混じって、犠牲者たちの断末魔の残響が砂漠の上を駆け巡った。彼らは死霊となり、数多くの商人や旅人たちに自らと同じ冥府の門への一本道を歩かせた。 探検隊の相次ぐ遭難もあり、いつしか「影絵の町」には呪いがあると噂されるようになった。誰もが呪いを恐れ、骨の砂漠の中にあるというその町へ近づこうとはしなくなった。
時代は二百年経ち、現の代となる。 王国間は一層人々の行き来が激しくなり、巷には瑠璃国や瑪瑙国から渡ってきた者も多くみられるようになった。国王の代も三度は変わり、現在はかつての王のひ孫がこの国を治めていた。 国王は珍しいものが好きな人物だった。国内外の畸形者を集めてきては、城内に好きなように住まわせていたし、お抱えの画家におぞましい怪物の絵を描かせては、自らの寝室の壁をそれで埋めていたのである。商人や科学者、芸術家や魔術師たちは、そんな国王に取り入ろうと競って城へ押しかけた。 その中に、一人のみすぼらしい身なりをした男が居た。兵士に連れられて国王の間に入るや、男は袖の中から一つの石を取り出したのである。 「世に並ぶものなしという偉大な蒐集家、金剛国の国王様であらせられれば、私の持って参りましたこの石、さぞお気に召されるに違いありませぬ」 自慢げに語る男に、国王は尋ねた。 「して、そなたの持ってきたものは何なのだ?」 「これなるは、影絵の町より持ち帰りました、影の魚の入った石でございます」 国王はすぐさま博物館の、あの壷を思い浮かべた。 曽祖父の代に一人の行商がこの国にもたらしたという影のない壷。それは「影絵の町」で影を抜かれた壷だという。この国からも何度も探検隊が遣わされ、曽祖父も夢に見た幻の町だが、とうとう誰もみつけられなかった。 ところが今、目の前のこの嫌な薄笑いを浮かべる男は、その町から持ってきたという石を持っているではないか!国王の息遣いは自然と荒くなり、柳のような眉の下に隠れた目は爛爛と輝いた。 「ほほう、早速みせてもらいたいものじゃ。どれ、その石を持ってこい」 召使の持った銀の盆に乗せられて、石が王の許に運ばれてゆく。石を見、手に取った国王は「おお」と驚嘆の声をあげた。 それは一見すると拳大のただの石ころだった。だが表面をなぞる様に、細長く黒いものが忙しげにグルグルと駆け巡っている。 「これは、この黒いものは何じゃ?」 男は口から涎を垂らしつつ、上目遣いに国王を睨みながら答えた。 「それこそが、影絵の町にのみ生息するという、影の魚で御座います」 「これをどうやって見つけたのだ?」 「影絵の町に行ったのです、王様!嗚呼、長年あの悪名高き『骨の砂漠』を歩き、調べ上げていった結果、とうとう影絵の町へゆく道を開拓したのですよ!実は私の真の献上の品とは他でもありませぬ、この私めが影絵の町までお導き差し上げましょうと申し上げるのです」 国王は、影の魚の泳ぐ石と男の顔を見比べた。すでに国王の考えは決まっていた。 「いいだろう、お前の言葉を信じようではないか」
数百もの兵士と十人の学者と数え切れぬほどの駱駝たち、そしてあの薄汚い男で構成された探検隊が金剛国を発ったのは、それから太陽と月が五十回ほど入れ替わってからのことだった。 再び太陽と月の位置は入れ代わり立ち代りし、隊の中にいた兵士の数も少しずつ減っていった。砂漠の過酷な環境に耐えかねて脱走した兵士も中にはいたが、多くは骨の砂漠の砂の一部となったのである。 或る者はオオスナウナギの坩堝の餌食になり、また或る者は熱と飢えと渇きのために倒れた。夜には白昼とはうって変わって恐ろしいまでの寒気に見舞われた。ホシカゲロウ舞う砂の丘の彼方、遥か遠くより聞こえてくる死霊たちの囁きの為に気のふれた者も続出した。それは学者や駱駝たちとて同じであった。 こうして、念願の影絵の町の噴水が眼前に現れた頃になると、探検隊は兵士三人に学者が一人、案内の男に駱駝が一頭と、かなりみすぼらしいものになっていたのである。 「皆様、あれが影絵の町で御座います」 「と、とうとう着いたのか」 「おお、水だ!」 三人の兵士は思い思いに町の方へ駆け出した。その後を学者と駱駝がとぼとぼと追った。案内人の男はというと、そんな彼らの様子を眺めつつ、脂ぎった口元を三日月形に歪めてにやりと笑った。
一見すると、その町は廃墟のようであった。 噴水の水が天高くまで勢いよく噴出し、ところどころに懐かしい木々や草花が溢れているが、人工の建造物は悉く荒れ果てていて、人の住んでいる気配がまるでない。噴水近くの倒壊した神殿は、壁一枚のみが未だ倒れず残り、嵌められた玻璃窓の色鮮やかな神々が、陽光によって地面に投影されていた。 石段に腰掛けながらその美しい装飾を眺めていた年若き学者――名をイフラスという――は、神殿の影から何かが飛び出すのを見た。 「おや、あれは?」 よくみると、それは一つばかりではなかった。いくつもの黒く平たいものが、町の建物の影の間を行ったり来たりしているのである。それらは人の姿をしていた。大きなものから小さなものまで様々だった。だが、いずれも影があるばかりで影の主がいないのである。 「これがあの男の言っていた影絵の町の住人か。こうして間近で眺めてみると、実に不思議なものだ。よおし」 イフラスは立ち上がると、影に向かって言葉をかけた。それは「おーい」という実に単純なものであった。 影が一斉に止まる。そのうちの一つが、なにやら言葉を発した。イフラスには、それが「アナタハダレ?」と聞こえた。どうやら彼らの言葉は金剛国の民が用いるものと似ているようだ。 「はじめまして。我々は金剛国国王より遣わされて来た者です」 すると別の影が次々と答えた。 「ワタシタチノマチニヨウコソ」 「コワイヨコワイヨ」 「ナンダナンダ?」 「マレビトトハメズラシイ」 「コンゴウコクダッテ?」 イフラスはうろたえつつ、影たちに尋ねた。 「この町で一番偉い方とお会いしたいのですが」 「ワカッタ、チョウロウノモトヘオツレシマショウ」 最初に「アナタダレ?」と喋った大きな影が答えると、「コッチコッチ」とイフラスを招きながら石畳の道を這い出した。彼は影のあとを追った。 噴水から放射状に伸びた通りのうちの一本を、影に連れられてイフラスは進んだ。この町に入った時には気付かなかったが、道は沢山の影で溢れかえっていた。その中には駱駝の影もあれば、犬の影もあった。建物の影の屋根の上には、三つの突起を持つ丸いものが乗っていたが、それはどうやら猫らしかった。 ここまで多いと、光の落ちた部分だけを踏んで歩くのには困難を要する。イフラスは誤って一つの影の頭の部分を踏んでしまった。だが、彼らに特別の気遣いはいらないらしい。真っ黒な頭は靴の上にふわりと乗っかると、すぐに後方へ歩き去ってしまった。 「ココガチョウロウノイエ。イマヨンデクル」 不意にそう言うと、影は一つの家の影の中へ消えていった。まもなくして、影は二つになって戻ってきた。さきほどの大きな影に手を引かれ現れたのは、腰の曲がった影だった。足が三本に見えるのは、片方の手で杖をついている為だろう。 「はじめまして。私は金剛国の遣いでやって来たものです。あなたがこの町の長老ですか?」 老人の影は震える声で静かに答えた。 「オヤオヤ、影ノアル人ヲミルノハ何年ブリダロウ。数日マエニミタヨウナ気モスルシ、何百年マエノデキゴトノヨウニサエモカンジルワイ。イカニモ、ワタシガコノ町ノ長老ジャ」 イフラスと長老はそれから様々な話をした。 金剛国が二百年前にこの町の存在を知ったこと、それから何度か隊を派遣したものの彼らは二度と金剛国に帰らなかったこと、ここに辿りつくまでの地獄のような日々のこと……珍しいものが好きな国王が如何にこの町に興味を持っているか、また彼自身の学者としての探究心をイフラスは語った。 「私はこの町の歴史が知りたい。何故あなた方は影のような姿をしているのか、どうしてこの町に住むようになったのか、長老ならばご存知ではないかと思うのです」 「ワレワレノ出自ニ興味ヲモタレタカタハ、アナタガハジメテダ。オオクノ愚カ者ハ、ドコデキイタノカ、コノ町ノ宝ヲ狙ッテヤッテクルノニ。ヨロシイ、ワレワレモイツ滅ブトモシレヌ。アナタノヨウナカタニワレワレノ歴史ヲカタリツイデモラウコトハ本望ジャ。ワレワレガドウシテコノヨウナ姿ニナリハテタノカ、スベテヲオハナシシマショウ」 老人の影はひとこと、ふたこと呟くように語り出した。イフラスは慌てて手帖を取り出すや、その言葉の一つ一つを自分達の言葉に直しつつ、丁寧に記し始めた。
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あなたはおそらく、私の家につくまでにこの町の様子をみたことでしょう。民はあなたの国の人々とは異なり、皆影の身体しか持たない。そればかりか、犬や猫、家畜さえもここでは影の存在である。 しかしながら、これは神がこの世を創造した始めからそうだったわけではない。つまり、ここに住む者たちも、元々はあなたたちと同じ姿をした人間だったのじゃ。 千年前、まだ金剛国も瑠璃国もこの世界には生まれていない頃、我々はあの忌まわしい呪いによって、この地に姿を縫いつけられた。人々は実体なき空虚な者へと変貌し、この砂漠の町で終わりのない生を繰り返すことが約束されたのじゃ。 今でこそ、ここは小規模な町の様相を呈しておる。事実我々はこの廃墟を「町」と呼んでいるし、あなた方も「影絵の町」と名づけたのでしょう。ところが、かつてここには金剛国よりも広い領土と人々を囲った巨大な王国があったのじゃ。 あの日、我々が影となった日、美しかったほぼ全ての建物が砂漠の砂となり、一部の建物と噴水を残すだけとなった。この町からもう少し砂漠の中を歩けば、おそらく旧国王の城の残骸が見つかることだろう。盗人たちの取らんと望んでおるこの町の宝はそこに眠っておるのだ。国家をなくした私達だが、余所者に財産を奪われるのは無念なことじゃ。現在も、民は交代であの場所へゆき財宝を監視しているのだ。
話が少々外れてしまいましたな。そう、ここには昔広大な王国があったのです。まだ魔術が生き生きとしていた時代だった。人々は誰もが当たり前のように魔術を使った。魔法で様々な道具を作り、それを暮らしの為に使っていたのじゃ。 平穏そのものだったこの国に、あの男はやってきた。見るからにみすぼらしい身なりの男でな、城門の兵士どもは最初砂漠の果てからやってきた乞食だと思った。だがそれは違った。男は魔術師だった。彼奴はこの国に入ってくるなり、国王に謁見を求めたのだ。何でも、王にみせたいものがあるという。それを聞いて国王も目を輝かせた。 男がこの国もたらしたものは、地獄の底から破滅という名の獣を呼び覚ます道具だった。一国の兵隊すべてを以ってしても一日では殺し尽くすことの出来ない人々を、一瞬で消滅させることのできる、それはそれは恐ろしいものだった。何故そんなことが分かったかって?それは国王が、実際にそいつの力をこの世界で試してみたからじゃ。 国王はまず、それを使って隣の国々を滅ぼしていった。あなたが旅の途中に見た砂漠、あれが最初からこの世に存在していたとお考えかな?砂漠の砂は遭難した旅人の骨だけで出来ているのではない。元はといえば、我々の国王が滅ぼした国々の成れの果てなのじゃ。 国王は、その野獣の力を自分のものであると勘違いした。そしてこの世を束ねる神になろうとしたのじゃ。だが、真の神々が王の行いを許すはずがなかった。 或る日、彼方の国を滅ぼそうとした国王は、誤って自らの王国を崩壊させてしまったのだ。 私は覚えている。あの噴水の真上に煌めいた閃光を。そして次の瞬間、我々の親しんだものは全てなくなっており、私の身体は地面に縫い付けられていたのだ。人間でも亡霊でもない、我々は影となってしまったのだ。 呪いは国の民のみならず、道具を用いた本人へも及んだ。国王は悪魔の道具と融合して、神とはかけはなれた怪物の姿になってしまった。 我々が「影喰い」と呼ぶあのおぞましき存在……太陽が砂漠の彼方に沈む頃になると何処からともなく現れて、仲間を喰らい去ってゆく。我々の数がこれだけになってしまったのも、すべては「影喰い」のせいじゃ。 嗚呼、想像するだに恐ろしい……私の耳の奥では、今になっても尚あの怪物の咆哮と、貪り喰われる妻の泣き叫ぶ声が木霊するのじゃ。
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イフラスはため息をつくと、手帖を懐へしまった。 「大変貴重な話をしてくださり、ありがとうございました」 「アナタニ語ルコトコソガ、コノオイボレノ最後ノシメイ。ドウカ、ドウカ、呪ワレシワレラノ話ヲカタリツイデクダサレ」
イフラスと三人の兵士は、廃墟の中の、とりわけ崩壊が少ない家を宿としてあてがわれた。 食物には不自由しなかった。崩壊したとは言えど、この町には水が豊富にあったのだ。果実も良く育ち、金剛の国でもみられるような真っ黒でない小動物や昆虫も多く生息していた。 「あの男は何処へ行ってしまったんでしょうか?」 イフラスは案内人の男がいないのが気にかかっていた。 「さあな。俺達がこの町を散策している時には、もう消えていたよ」 「まさか、この町の財宝を探しに行ったのではないだろうか」 「うむ、考えられないことではないな」 イフラスは長老の言葉を思い出していた。 町の外れの廃城、そこにこの国を自ら滅ぼした王の宝が眠っている。しかし影絵の町の住人は、財宝を持ち出されることを快く思っていないようだ。 一体盗掘者にはどんな罰が待ち構えているのだろう。イフラスは一人、背筋の寒くなるような思いがしてそっと首を埋めた。
カチカチ
カチカチ
ホシカゲロウの翅音のざわめきが聞こえてきた。 彼らは星の落ちたところから生まれる。翅は薄青色にぼんやりと明るく、群れを成して砂漠を移動するのだ。虫達の光は時に星と見間違えられ、星座を目印に骨の砂漠を渡りゆく多くの交易商たちを惑わせ、死に追いやった。カチカチという独特な翅音もまた、この虫の特徴である。金剛国では、ホシカゲロウは魔神の遣いとして恐れられ、カチカチという音が聞こえる夜は、決して家の外へは出ないのだった。 イフラスは眠れなかった。ホシカゲロウの煩い翅音が、冴え渡った空気を揺らす。一度気になり始めるともうどうしようもない。イフラスは兵士達を起さぬよう、布団からこっそり抜け出した。 窓の外、瓦斯体のような青白い光が辻のところに浮いている。
カチカチ
カチカチ
カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ……
その不気味な音の中に異質なものが紛れ込んでいることに、イフラスは気付いた。 低い声の主が無理やり高音を出しているような悲痛な音。犬の遠吠えだろうか。否、それはもっと複雑なものだった。再びその音が聞こえた時、イフラスは壁の外套に手をかけて、不吉なホシカゲロウの群れの舞う外へ飛び出していた。 月の光によって、相変わらず通りには影絵の家が並んでいる。いくつかの影を踏みつつ、イフラスは通りを駆けた。ホシカゲロウが顔にバチバチと当たる。後ろにたなびく外套に沢山の虫が喰いつき、走るイフラスの身体はまるで流星のようにピカピカしていた。 声が近づいてくる。叫び声を上げる、男の声。それは不意に姿をみせなくなった、あの案内役の男のものによく似ていた。噴水がみえる。そしてその傍らには……
イフラスは、行方の分からなくなっていた男の姿をそこに認めた。男は呆然と立ち尽くしつつ、噴水から水が噴き出るのをじっとみつめていた。 「おい、一体何があったんだ?」 イフラスは男の肩を揺すった。 「エヘヘ、エヘヘへヘヘへ」 男は既に正気ではなかった。 ギラギラした口を歪め、幼児のような無邪気な目で噴水を見つめながら、ただ不気味な声で笑うばかりだった。 「ソノ男ハ城ノ宝ヲ盗モウトシタノデス」 不意に後ろから声がしたので、イフラスは吃驚して振り返った。 月明かりに照らされた神殿の白い壁に、腰の曲がった三本足の人の影。今声を発したのはこの影らしい。その傍らには長い棒を持った二つの影があり、その棒の先を巨大な十字の影に向けている。十字はグラグラと揺れている。聞き覚えのある叫びを上げながら……。 気付けば噴水の周り、至るところに今までついぞ見なかったほどの沢山の人影があった。 「ま、待て、許してくれ。悪気があったわけではないのだ。俺はこの国を滅ぼすつもりであれを贈ったわけじゃ……」 十字架が叫ぶと、長老は先ほどの優しい口調からは想像できぬような怒鳴り声を上げた。 「コノ期ニ及ンデマダ嘘ヲツクカ、愚カ者メ!一度ナラズモ二度マデモ、我々ヲ愚弄シヨウトイウノカ。私ハ覚エテイルゾ、オ前ノソノ悪意ニ満チタ顔ヲ。我々ヲコノヨウナ浅マシキ姿ニシタ張本人ノ顔ヲ忘レルワケガナイノダ。自ラノ身体ニ術ヲ施シ不死ノ身体ヲ手ニ入レタノダロウガ、コノ地ニ戻ッテキタノガ失敗ダッタヨウダナ。遂ニ捕ラエタゾ、悪シキ魔術師メ!」 そのとき、イフラスは恐ろしい唸りを聞いた。それは最初彼方からしたが、次第にこちらへ近づいてくるようだった。 「アア、アイツガキタゾ!」 「『カゲクイ』ガヤッテキタ!」 「バケモノメ、コノサワギヲキキツケテスナノソコカラハイダシテキタンダナ」 イフラスは見た。 それは蛇の胴のように長く、象の身体のように太い巨大な影だった。甲殻類のような節のある脚を何本も何本も持ち合わせ、それらを激しく稼動させながら、あっという間に町の中へ入って来た。噴水の周りからは阿鼻叫喚が木霊する。影絵の人々が「影喰い」と呼んで怖れるその影の怪物は、あっという間に広場の人々を平らげると、すばやく十字架のほうへと駆けていった。 イフラスは化け物の晩餐を最後までみなかった。外套を翻し逃げてゆく彼の後ろで、肉と骨の引き裂かれる音と共に、魔術師の断末魔の悲鳴がした。
惨劇の夜にも必ず朝が訪れる。 町は最早「影絵の町」などではなく、古の王国の遺跡に過ぎなかった。横からの光を受けてオレンジ色に染まった廃墟の町では、永遠の命を持つ影なき狂人が、いつまでもヘラヘラ、ヘラヘラと不気味な声で笑っているのだった。
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