◎金魚鉢


……果たして、この世に幽霊というものは存在するのでしょうか?
おや、怪訝な顔をしていらっしゃる。まあ無理もありません。こんな質問を不意に投げかけられたのであれば、あなた様でなくとも私をキチガイか、さもなくば痴呆老人か何かの類とお思いになることでしょう。


私は今まで幽霊の実在について研究してきました。
きっかけは、幼少の頃に祖母の幽霊を私自身がこの目で見た体験でした。
あれは祖母が死んで一週間ほど経った日の昼間のこと。一家は悲しみにくれ、私もいつもは祖母と歩いていた庭を一人で、ぶらぶらと歩いておりました。すると縁側に誰かの影をみつけました。最初は母だと思っていたのですが、よくよく見るとなんとその影は死んだはずの祖母だったのです!
幽霊というのは恐いものだと昔から決まっておりますが、私は不思議と、そのあるはずのないものを見ても恐いとは感じなかったのです。むしろこの世からいなくなってしまったはずの祖母が帰ってきたことの喜びから、私は彼女の元へ駆け寄ろうとしました。すると、祖母の影は少しずつ白みがかかり、やがて消えてなくなってしまったのでした。
その日以来、私は幽霊の書物を読み漁るようになりました。
いかがわしい西洋の心霊科学や隠秘学の書物から、日本の幽霊や化け物の伝説を集めたものまで、私の本棚は「幽霊」という文字の入った書物で埋め尽くされてゆきました。
ここまで私を駆り立てたものは何だったのか、私自身にもよくは分からないのです。ひょっとしたら、あの日私の前に現れてくれた祖母の存在を、単なる弱った精神の産物にしたくなかったということもあるのやも知れません。兎に角、私の幽霊に対する情熱は、それからも止むどころか、むしろ強くなっていったのでした。そしてこの情熱が、いつしか現在の幽霊研究、ひいては近頃完成した、私のこの発明に結びついたのです。

本題に入る前に、つい前置きが長くなってしまいました。歳を取ると取りとめもない話を延々としてしまう癖がついてしまって我ながら困ったものです。
ええーと、話はというと……そうそう、この装置のことです!私は幽霊を研究し、ついに幽霊の正体を突き止めたのです。そして私の理論を実践すべくこんなものを作ってしまったのでした。
何?ただの金魚鉢ではないかって?ハハア、仰りたいことはよく分かります。確かに、一見するとこいつは何の変哲もない、可愛らしい金魚が三匹泳いでいるただのガラスの金魚鉢にしか見えないでしょう。ご尤もご尤も。ですがこの金魚鉢こそが私の心血を注いだ研究の成果なのです。ソウダ、試しにこの鉢の中へ手を入れてご覧なさい。ふふ、どうしました?驚いているご様子で。そうなのです。鉢の中で泳いでいる金魚はまさに幽霊そのものなのですから。金魚掬いをしようとしても、手でもってこいつを救うことは不可能なのです。みんな手ごたえもなく、すり抜けてしまうのです。
ほほう、あなたは実に好奇心旺盛な方でいらっしゃいますね。そこが珍しいものをただ受け入れ、無責任に喜ぶだけの民衆と違うというものです。こうして知り合ったよしみですから、あなたにはこの鉢のことをもう少し詳しく教えて差し上げましょう。

私は先ほど、幽霊の正体が分かったと申しましたね。その幽霊の正体こそが、この不思議な金魚鉢の原理と密に関わっていることなのです。結果だけを申しますと、幽霊とはすなわち物の記憶のことなのです。
私は数多くの文献を漁ってゆく中で、「場所に出る幽霊」というものに注目しました。心霊科学でいう地縛霊とか何とかいうやつです。
何故特定の場所だけに特定の幽霊が現れるのか?生前は人なのだから、意思を持っていろんなところへ旅行しても良さそうなものなのに、ひとつの場所に留まって生者を驚かす幽霊の実に多いこと多いこと。
私の行った詳しい研究の内容はあまりにも難解故、ここでは語ることを止しときましょう。兎に角、それによって場所に出る幽霊が、その場所の岩や木々や土壌、或いはもっと人工的な物体のみせる記憶であることを突き止めたのでした。
あの日、縁側に私の祖母が出現したのも、おそらくは我が家が生前の祖母を記憶していた為でしょう。まったく夢のない結果となってはしまいましたが、あの日に見た祖母の姿がただの幻覚ではなかったということは、私にとっては嬉しいことでした。
一体思考を持たない無生物に記憶があるなんて俄に信じられぬことですが、まあ蓄音機だって音を記憶して再びその音楽を再現することが出来るのですから、それほど不思議なものでも御座いますまい。あれのもう少し複雑になったものだと考えて下さればよろしいのです。
そうそう、今私は「場所に出る幽霊」の正体についてお話しましたが、文献をみてゆくと特定の人間のところにしか現れないものも居るそうです。これについても私の理論が応用出来そうな気がしますが、まだ詳しいことは良く分かっておりませぬ。取りあえず、「場所に出る幽霊」のひとつの原因がものの記憶であるという風にご理解頂きたい。

今まで私はものの記憶が幽霊現象を引き起こすという自説を述べてきましたが、ここでひとつの問題があります。それは、どんな物体にも記憶が宿るかといえば必ずしもそうではないということです。
円盤状の板すべてが蓄音盤に適しているとは限らぬように、記憶を持つ物体というのにも様々な条件が揃わねばならぬのです。私の発明とは、具体的には物体に対し、その条件を人工的に満たしてやるというものなのです。そうして完成したのが、この金魚鉢なのです。
私は金魚鉢を作り上げた後、しばらくの間この鉢で三匹の金魚を飼っていました。鉢に泳ぐ金魚を記憶させる為です。実験は成功でした。結果はあなたがたった今見たとおりです。ここで泳いでいる金魚は金魚の残像、すなわち金魚の幽霊なのです。しかし彼らは自分が幽霊などとは知ることもなしに、悠々と鉢の中を泳いでいる。考えてみると残酷なことです。そこで私はふと恐ろしいことを考えてしまう。今ここに居る私やあなた、そして世界中の多くの人間や動物たち。これらも地球、或いは宇宙というもののただの記憶に過ぎないのではないのか?我々はただ、あらかじめ備わった記憶を反復している幽霊に過ぎないのではないのか?

嗚呼、私には、私が生きている人間なのか幽霊なのか、それを証明することすら出来ないのです!我々もこの金魚たちと同じ……

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旅人は目覚めた。

一体いつまで眠っていたのだろう。気がつくとテントの生地には夜の闇が深く染み込んでいた。
それにしても妙な夢だった。老人の声も、金魚鉢の中で泳ぐ金魚たちの朱色も、ひどく鮮明に残っている。長旅の疲れがようやく顕れたのかも知れぬ。
汗をかいた身体を夜風に当てようと、旅人は外へ出た。眼前には彼方まで砂の土壌が広がっており、時折吹く風に舞う粒子が月の光で金粉のように煌く。何処より、得体の知れない生物のキチキチという鳴き声が聞こえてくる。
ふと、旅人は足元に光るものを見つけた。それは半分以上砂に埋もれていたが、掘り起こしてみるとガラスの鉢だった。
「ふふ、記憶…か」
旅人は力強く腕を振り、鉢を投げた。夜空に弧を描いた鉢は、どこまでも続く砂漠の海原の中へ落ち、そのまま沈んでいった。

◎モドル◎