◎子供部屋


ドアを開けると、埃の臭いが鼻をついてくしゃみがでた。

ここに戻るのは何年ぶりだろう。
まるで菌類の如く書架や机に落ちかかった埃を別にすれば、そこは私が子供時代に遊んだ場所、そのものだった。
見覚えのある活字が薄暗い木製の洞から、いくつもいくつも飛び出ている。それは規則正しく、或いは独特の字体によって不規則に並んでいた。
小さい頃の私は体が弱く、外に出る代わりにこの活字の塊をひたすら読むことによって、未知なるこの世界を知ったのだ。ただしそこにあるものは決して実在するものばかりではなかった。時にはそれは悪夢となって、夜の夢に現れてきたのである。

ある時、そいつは古城の主だった。子供である私にしきりにワインを勧めるのだが、当然飲むことが出来ずにもじもじしていると、その酷く尖った犬歯をむき出しにして不気味に微笑みかけるのだ。その顔を見るのが恐ろしくて嫌で、取っ手に獅子の彫り物のついたグラスを手に取り、液体を一気に飲み干す。いつか階段から落ちて顔を強く打った時にしたのと同じような臭いがする、とても不吉な味だった。
またあるとき、それは全身を包帯に巻かれたとても大きな人間だった。包帯の隙間からは血なのか膿なのか、茶色く乾いた染みが滲んでおり、この部屋の臭いをさらに強烈にしたような黴臭さがあった。私はそれに追いかけられるまま、薄暗い石造りの回廊をひたすら走り回っているのだった。やがて大きな乾燥した腕が首根っこを掴むまで、私たちの鬼ごっこは続いた。

彼らの姿は恐ろしかったが、不思議と厭なものだとは感じなかった。それどころか、同年代の友達のいなかった私は、彼らに友人の幻想を求めるようになったのである。
夜の夢の快楽を求めるままに、私は彼らの友人の友人を求めて、両親に新しい書物をねだるのだった。体の弱い私を不憫に思ったのだろう。両親は怪物たちと戯れる息子を咎めはせず、むしろ強請られるままに遊戯の機会を与えてくれたのである。
ところが、そんな陰気で幸せな日々も長くは続かなかった。
私はこの古い友達の居る部屋から去らなくてはならなくなったのだ。その頃は咳が止まらず、鼻からはいつでも伯爵から勧められたワインの香りがしていた。日に日に顔も青ざめてゆき、いつしか身体中にできた皮膚病を隠すため、腕や脚には包帯が巻かれた。
そんなボロボロの体を呪いながら、私は何十年という時を、ビニールの壁に覆われながら寂しい場所で一人過ごしたのである。

私は病に打ち勝った。そして今、懐かしいこの子供部屋へ戻ってきたのだ。
自作した鉱石ラジオはまだ動くだろうか。水晶や翡翠の原石を入れた宝箱は捨てられず残っているであろうか。そんな心配は果たして無用だった。彼らはだいぶ汚れてはいたけれども、昔と変らぬ姿で私を迎え入れてくれた。相変わらず光の差さないこの場所で。

窓の外からエンジンの音がする。
まぶしすぎる太陽の光の下には、一台の車があった。あの頃の両親と良く似た若い夫婦、そして後部座席の左のドアを生意気な手つきで開けて出てくるのは、嗚呼、あの頃の僕だ!
口髭を生やした初老の男に案内されて玄関へとやってくる。ガチャガチャとドアノブを回す音の後に、先ほどより一層はっきりと聞こえるようになった僕の声が、下の階いっぱいに広がった。

私は彼らを暖かく迎え入れてあげるつもりだ。
お望みならば、この部屋、この宝物、そしてこの本も全て僕にあげようと思う。そしていつか友達が私にしてくれたように、僕にもあの血の味のするワインを御馳走してあげようと思うのだ。

◎モドル◎