◎黒猫


心の治療の為に、海沿いの温泉町を訪れた。

少年時代には幸福の前触れだった潮風も、今はただの哀しい風だ。
モノクロームの空が海辺の町に落ちかかっている。昼間だというのに誰も居ない海岸には、打ち捨てられた小舟、網。ウミネコに紛れて、一羽の大きな鴉が死んだ魚を食べている。
都会で暮らしていた時の私は、いつもあの鴉のような存在だった。生きようとしたために追い出され、孤独のままに別天地を求めてひたすら彷徨った。最後にたどり着いた場所は自分の心の中だった。そこで鴉は一点の染みと化した。染みはいつしか、取り返しのつかないくらいに大きなものになっていた。
私は鳥の群れに向かって石を投げた。何十羽もの巨大なはばたきがして空へと消えていったが、黒い鳥だけは相変わらず死魚を啄んでいた。
このままでは気が滅入りそうだったので、辛さを忘れようと海岸を歩いた。魚介の死臭を含んだ生臭い風が前方から私を襲う。匂いは歩くたびに強烈になってゆき、やがて前方に黒い塊がみえた。夥しい鴉の群れだった。おそらくイルカか何かだろう。彼らは人間ほどの大きさの動物を挙って啄んでいた。黒い群れの中から飛び出した白い鰭が時折ぴくと動いた。私は口を押えながら、来た方向へと走り出していた。
黒ずんだ木造の民家が軒を連ねる。妙な家の建て方のせいで、路は迷路のように複雑に入り組んでいる。側溝を通って上から温泉の湯が流れてくるので湿気っぽく、硫黄の臭いがする。やはり人はいない。先ほどから感じていたことだが、この町には人の気配というものが欠けていた。そうかといってゴーストタウンのような荒廃した死気も感じられない。人がいないのにこの町は生きているのだ。
狭くて暗い路を抜けると、広い場所に出た。大きな柳の木があって、その下に何か三つ、黒い大きな塊が集まってもぞもぞと動いている。私は最初黒猫だと思った。そのうちの一つがむくりと動いたかと思うと、みるみる大きくなった。私が心臓が止まるかと思うくらいに吃驚していると、それはくるりとこちらを振り返った。喪服を着た人間の女だった。この町に人が居たことが、当然ではあるが驚きだった。道理で猫にしては大きすぎたのだと納得していると、ほかの2人も立ち上がってこちらを向いた。
「余所者か。お前も食うか?」
先に立ち上がった女が言った。咄嗟の事に返事を返せずにいると、
「これのことだ」
と別の女が手に持っているものを頭の上に振りかざした。それは一匹の魚だった。腹が破れており、女の指を伝って血がぽとぽとと地面に滴り落ちた。女達は今の今まで、しゃがんで生の魚を食べていたのである。口紅かと思ったその赤い口元も、よくよく見ると魚の血であった。
さては狂人だろう。私は女を無視して通り過ぎた。内心危害を加えてこないか心配だったので、私は振り返り振り返りつつ歩いた。女達は私を追いかけるでもなく、しばらくこちらをぼおーっと見つめ続けたのち、再びしゃがんで魚を食べ始めた。
広い場所はここだけのようだった。しばらく歩くと、再び民家の密集した狭く入り組んだ路に入ってしまった。側溝を湯気を立てて流れる水が硫黄くさい。
再び広い場所に出た。大きな柳の木があって、その下に何か三つ、黒い大きな塊が集まってもぞもぞと動いていた。猫かと思いきや、そのうちの一つがむくむくと大きくなり、くるりとこちらを振り返った。喪服を着た人間の女だった。女は口から赤い液体を滴らせながら、言った。
「余所者か。お前も食うか?」

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隣の男の肩が強くぶつかって来た衝撃に驚いて、私は目覚めた。
電車は止まっている。窓の外をみると、そこには目的の地名の書かれたプレートがかかっていた。慌てて荷物を取り電車を降りる。改札をくぐり駅を出た瞬間、体の露出している部分は、言いようのないじっとりとした感触を味わった。

私は心の治療の為に、この海沿いの温泉町を訪れた。
駅から海岸まではそれほど遠くなかった。モノクロームの空が海辺の町に落ちかかっている。昼間だというのに誰も居ない海岸には、打ち捨てられた小舟、網。二人の少女が居た。少女達の傍らには、彼女達の背丈よりも少し低い木桶があり、その中から赤ん坊の泣き声のようなものが聞こえる。
「何をしているの?」
私は問うた。少女の一人、麦藁帽子を被った林檎のような頬の女の子が答えた。
「がいじゅうを殺すの。いっつもわるさをするんだから」
桶の中を覗くと、三匹の大きな黒猫が入っており、各々が外へ出ようとしきりに内壁を掻いていた。

私はそれ以上何も言わなかった。小さな手で行われる処刑をみることなく、今晩泊まる宿へ向けて歩いていった。

◎モドル◎