◎くちぶえ


満月の美しい晩。こんな夜は、お気に入りの紅い鼻緒の下駄はいて、何も持たずにおもてにふわっと飛び出したくなる。あんなに満開だった桜ももう散ってしまって昼は暑いくらいの季節になってしまったけれど、夜の空気は相変わらず頬を冷たく包む。誰も居ない通りに、私の歩く音だけが響く。からん、ころん、と。

やがて家はまばらになり、前方から水の流れる音がした。橋は月光に照らされ、いつもは木造の粗末な概観が今宵は白く、美しい。下駄の音は、雪の降り積もったような橋の上で止まった。時折せせらぎを乱すのは魚の踊りか、眠っている鴨が驚き蛙のように低く呟く。二羽の蝙蝠が私の腕に陰を落とす。
夕ご飯に少しだけ飲んだお酒が効き出して、私は楽しくなった。外の空気もいつのまにか暖まっていた。紅もつけない唇をちょっと尖らせて、さっきまで聞いていた古いレコードの歌を、酒気と一緒に外へ吐き出した。
(夜中に口笛を吹いてはいけませんよ)
私の手を繋ぐ母の影が言った。月があまりにも明るいので、母の顔は真っ黒いのっぺらぼうのお化けだった。私は顔のない母に尋ねた。
(どうして?)
母は唇のない口に、白い歯をぎらぎらと光らせながら、こう答えた。
(夜に口笛を吹くとね、あの山の向うから蛇が来るのよ)
蛇なんてこの界隈では珍しいものではない。近所の男の子たちが叢でよく蛇を捕まえているのをみているし、家の庭にだって時々大きなアオダイショウが鱗を乾かすために日を浴びていることがある。あまりに見慣れているので、私にはとりわけ苦手な虫でもなかった。でも母の語る、山の向うからやってくる蛇というのが、何か妖怪じみた得体の知れない存在に思えた。
(蛇が来ると、どうなるの?)
母は答えなかった。これ以上聞いてはいけないのだと思った。

それからほどなくして、母は私の前から姿を消した。私はあの家で父と祖父母に可愛がられながら育った。母がいなくなった理由を誰も教えてくれなかったが、あえて聞こうとは思わなかった。私には分かっていたからだ。母はうわばみに連れていかれたのだと。蛇の嫁さんになってしまったのだ、と。あの満月の夜、私は私の小さな手を握る綺麗な女の人が吹いた、優しくて哀しい口笛の音を聞いたのだから。

私は山の向こうにも届くように、いっそう強く口笛を吹いた。

◎モドル◎