◎最後の日


病院の白さが嫌いだ。
まず最初に視界に入る外壁に止まらず、白い床と壁の風景が延々と続く内部。おまけに病室も診察室も、看護婦や医者の着ているものも白ときている。白い色に囲まれていると、何か心の底を抉られる様な不快な気持ちに襲われるのは、私が特殊な存在であるためだろうか。
また白色は白骨を連想させる。私は病院の白さ以上に、骨というものが嫌いだった。子供でもあるまい、今更骸骨が怖いなどということはない。ただつまらないのだ。血と肉の伴わない身体など、所詮何の意味もない。時間に食い散らかされた人間の成れの果てでは、私に悦びを与えてくれるに相応しくない。私はただ、皮膚の底を絶えず蠢く、あの赤を愛しているのだ。
ところが今日の私の服は赤色ではなく、黒だった。これには理由があった。この忌々しい白に対抗するには、赤では弱すぎたからだ。それに赤を拝む楽しみは、「彼女」に会うまでとっておきたかった。
つばの広い黒薔薇の飾りのついた帽子を眉まで被り、肩には黒いバッグを提げ、全身を黒いドレスに包んだ鴉のような女が、「302」の札のついた病室をノックしている。その札のすぐ下に書かれた一つの名前の主こそ、私の見舞いの相手であった。
(今日は遅かったのね)
彼女はいつものように、唇を動かすことなくそう言った。
「支度に時間がかかったのよ。今日は最後の日ですからね」
(そうだったわ。ようやくこの日が来たのね。楽しみだわ。さあ続きを読んで)
私はバッグから黒い皮表紙の本を取り出した。彼女がこの部屋の住人となって以来、退屈しのぎに物語を読んであげている。身体の動かせない彼女にとって、これは重要な娯楽の一つとなっていた。時間は限られているので一日に数ページしか進まないものの、それを何十日と続けた結果、とうとうこの厚い物語を一冊読み終える時が来たのだ。彼女の言う「最後の日」とは、物語の最後の日、という意味でもあった。
終わりの一文を読み終えると、彼女はあるはずのない手を打って喜んだ。
(ああ、面白かった)
「でもね、私この小説の結末が大嫌いなの。だって人間のほうが勝ってしまうなんて、ありふれていてつまらなくなくて?怪奇小説なのだから、この際バッドエンドでも大いに結構だと思うわ」
(あら、怖い人ね。あなたのようになったら、私もそんなことを考えるようになるのかしら)
二人は笑った。でもその声は他の部屋の病人にはまるで聞こえないだろう。
私は本をベッドの上に置くと、彼女の頭を抱き上げた。まるで埃及のミイラのように厳重に巻かれた包帯を解いてゆくと、そこには彼女の、歳の割りに子供のように愛らしい、それでいて長い間ここにいた者に特有の青白い顔がある。いつものように、二人は接吻を交わす。すると彼女の頬に俄に赤みが差してきた。私の待ち望んだ、生きている者の悦びに満ちたあの赤が。
「これで最後、これで、最後よ。怖い?」
(ううん。でも…痛く、しないでね)
冷たい吐息が私の耳にかかった。

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私は病院を出た。だが一人ではない。私の横には寝巻き姿のままの彼女がいる。外は春だというのに肌寒く、花粉を含んだ黄色い強い風が吹いているが、彼女は平気みたいだ。
折りたたみの黒い日傘の下、私の左腕を物欲しそうに見つめる彼女を眺めつつ考えた。家に帰ったら早速彼女に新しい腕をプレゼントしよう。今度は自分ひとりでも物語を読めるように…。

◎モドル◎