◎ライオン


「ちょっとみてくる」
これが夫の最後の言葉だったと、窓に映る月をみつめながら洋子はため息をついた。

あの日も、ちょうど今日のように月が冴え渡り、雲間から覗く空の膚は真っ青だった。まだ赤ん坊だった直美を寝かしつけると、洋子と崇はリビングルームでテレビのニュースをみていた。
ニュースキャスターが胃痛を堪えるような面持でニュースを読み上げる。それらは昨日おとといと何ら変わり映えのない出来事ばかりだ。海外の何処かで紛争が起こった、高速道路でバスが横転して乗客が何人死んだ。痛ましい事故ではあるが、所詮は知らない土地の、自分たちの暮らしとはまるで関係のない出来事である。否、生活に少しでも関係のある話題でもそれは同じことだった。政治家の汚職事件やこの国の経済の深刻な状況をいくら聞かされても、そのときは怒りを覚えたとしても、数分も経てばけろりと忘れてしまう。フィクションとノンフィクションの違いなど、当事者でない限りはそれほど大きなものではないのである。
洋子はいつものようにそんなことを思いながら、ぼんやりとテレビをみるつもりでいた。ところが、その夜はいつもと少し違っていたのである。
俄にスタジオの雰囲気が慌しくなったのが、画面の前にいる洋子たちにも感じられた。差し出された原稿を鷲掴みに受け取りながら、男性キャスターはいつもよりも早口で告げた。
「ええと、速報です。先ほど、○×県○×市にある△△山動物園の猛獣舎より、一頭の雄ライオンが脱走したとの情報が入ってまいりました。詳しい情報はまだ掴んでおりません。新しい情報が入り次第追って番組でお伝えしていきたいと思います」
「おい」
崇が声をあげた。洋子は不安そうな顔で崇の顔をみつめた。
「△△山動物園って、うちの近所の?」
「ああ、○×県○×市って言ったから間違いないよ」
「どうやって逃げたのかしら。もう捕まってるといいんだけど」
「園内から逃げ出してたら大変だぞ。こっちのほうにも来るかもしれない。とりあえず、開いてる戸は全部閉めるんだ」
二人はソファーから立ち上がり、家中の戸を閉めて廻った。まさか猛獣が戸を開けて入ってくる筈はないが、鍵をかけずにはいられない。
窓ごしに月がみえる。そういえば今晩は満月だと、先ほどの同じニュース番組で言っていた。こんなに美しい円形の月が出ているのに、地上では恐ろしい事件が起こっている。それも猛獣が逃げ出したなどという非日常な出来事が。普段はつゆほども感じないことが、今日だけはすぐ傍に佇んでいるかのように強く思われる。
(満月といえば――)
洋子は別の或ることを考えていた。
(崇はよく言っていたわ。俺は満月が嫌いだと)
結婚する前の或る夜、デートの帰りに二人して道を歩いていた時も空は晴れていて月があった。だがそれは今日のような見事な満月ではなく、三日月だった。洋子が何気なく「月がキレイ」と呟くと、隣にいた崇もまた何気ない風に空を見上げながら呟いた。
「ああ、そうだな。でもそれはコンナ夜だけだ。あいつはすぐに醜くなるさ。あの丸い形、まるで眼球みたいじゃないか。今みたいに欠けてるときはいいんだけど、満月ってさ、かっと目を見開いて俺たちを睨んでるようで、それがなんだか不愉快でむしゃくしゃしてくるんだ。だから俺は、昔から満月の夜だけはどうしても厭だった」
「変なことを言う人ね」と洋子は笑った。時折詩人や哲学者の言いそうな奇怪なことを口にする崇だったが、そんなところに洋子は魅力を感じていたのだった。それから数年の交際の末に結婚し、娘が一人出来た今でもその思いは変わらない。
玄関の戸を施錠して洋子がリビングへ戻ってくると、先ほどとは違うキャスターが速報を伝えている最中だった。
「先ほどお伝えしたライオン脱走の続報です。ライオンは飼育員に飛び掛り怪我を負わせた後、柵を越えて動物園裏山へ逃げたそうです。現在、捕獲班が召集され、逃走したライオンの行方を追っている模様です。尚、ライオンに襲われた飼育員は…」
いつもは真剣に聞いていなかったニュースの事件が、自分達のすぐ傍で起こっている。洋子は床に座り込んでしまった。後ろから肩を叩かれはっとして振り返ったが、夫だとわかると思わず脚にしがみついた。
「どんどん悪い状況になっていくみたいだな。いつ脱走したのか分からないけど、さっきのニュースから結構経ってるみたいだし、ライオンもまだ捕まってないようだ。さっき冗談で言ったことも、案外…」
「あなた!」
それっきり二人とも黙ってしまった。テレビの声は、まるで町の向うから聞こえてくる祭囃子のように、二人の頭の後ろから聞こえてきた。
ニュースはその後も何度か続報を伝えたが、老朽化した檻が外れたことがライオン脱走の原因であること、現在のところ負傷者は担当飼育員一人であること、そしてライオンは未だにみつかっていないことが分かっただけだった。
「大丈夫だよ。そのうち捕まるさ」
最初に喋ったのは崇だった。だが、次に音を発したのは洋子の喉ではなかった。月に満たされた夜の空気を揺さぶる物音。それは外からした。すぐ近くらしかった。
夫婦は顔を見合わせた。
「あなた…!」
「嗚呼、俺の言ったことは本当になっちまったようだ!お前が言ったように思っても口にするんじゃなかった…」
崇はカーテンの隙間に指を挟み、庭を眺めた。それから青い顔で洋子のほうへ振り返り、こう続けたのだった。
「ちょっとみてくる」


そう、あの夜も満月だったのだ。ちょうど今日のように。

崇はそれっきり帰ってこなかった。それからすぐに新しい速報が入り、一人の男性が路上で惨殺体でみつかったと伝えた。死体の有様は刃物のような生易しいものではなく、もっと獰猛で恐ろしい凶器によって引き裂かれたことを物語っていたらしい。足りない部分があることから、遺体の一部は持ち去られたことが分かった。
だが被害者は崇ではなかった。そしてこの殺人を犯したものは、逃走していたライオンではなかったのである。
夜が明ける少し前にライオンは山中でみつかり、その場でハンターに射殺された。人を襲ってその一部を食したらしいことが関係者の耳にも伝わり、このような処置をとらざるを得なかったのだろう。ところが死んだ肉食獣の口元には自らの血しかついていなかったし、後の解剖でも胃から被害者の部分は出てこなかった。
同じ夜、まったく繋がりの見えない三つの事件が起こったことで、翌日以降しばらくは盛んにワイドショーで取り上げられることとなった。その多くは無責任なコメンテーターによる聴衆の猟奇趣味をあおるような内容でしかなかった。自分の家庭に起こったこの事件の報道を聞きつつも、洋子はこれらがまるで、どこか遠い世界の出来事のようにしか思えなかった。夫の失踪という事実は彼女にとってまったく現実感を伴わないものだったのである。あの事件の日と良く似たこんな夜には、まるで何事も無かったかのように夫が戻ってくるような予感がした。夫が嫌っていた、こんな満月の晩には……


「ねえママ、どうしたの?はやくつづきよんで」
洋子ははっとした。ああ、そうだったわ。窓の月から目を離し、洋子は再び活字を追い始めた。

すでに四歳を迎えた直美に、洋子は絵本を読んでいる。
西洋の童話集だ。銅版画の挿絵が美しくて購入したものだが、娘もそれを気に入ってくれたようだ。毎晩寝る前になると、決まって直美は洋子に読み聞かせをせがむのだった。
「赤ずきんちゃんはおかあさんの言いつけで、森に住むおばあさんにパンとぶどう酒をとどけにゆきました」
自分のよく知っているこの童話も、何度娘に聞かせてあげたことだろう。この後、赤い頭巾を被った哀れな少女はお婆さんを装った狼に食べられてしまう。洋子の昔聞いた話はここで終わっている。幼心になんと残酷なおとぎ話だろうと思ったことだ。だが娘に買ってあげたこの本にはまだ続きがあるのだ。赤ずきんちゃんを食べた狼は、猟師によって撃ち殺されてしまう。そして猟師が狼の腹を切り裂き、なかからお婆さんと少女を救い出すのだ。
如何にもおとぎ話らしいご都合主義だ、と洋子はいつも思う。蛇や蛙ではありまい、猛獣が人を食すのならば、その鋭利な牙を使わないはずがないではないか。猟師が狼の腹を割いたとき目にするのは、元気な二人の人間ではなく…そう、あの夜のように……


おーう…

 おおーう…


遠くで犬が啼いている。昔の習性がそうさせるのだ。
何処にいるとも知れぬ仲間に自分の存在を教える。彼らが人間に飼育される存在となってしまった今では滑稽な光景だが、かつて自然界で生きてゆくためにはそれは必要なことだった。群れの仲間、親兄弟の姿を思いながら彼らは遠吠えする。仲間を思うその気持ちは人間の言う「愛情」と如何ほどの差があろうことか。

おおーう

か細い声。
だがそれははっきりと、すぐ近くからした。洋子は狼の腹から赤ずきんが助け出されている挿絵を眺めていた目を、ベッドの中でおとぎ話を聞いていた直美のほうへむけた。

瞳に満月を湛えた娘は、口を尖らせて遠吠えしていた。

◎モドル◎