◎まなつび


前方はユラユラ、頭上はジージーとうるさい日である。

乗客の居ないバスから降りて、川沿いの道を歩いていた。音とともに遠ざかってゆくバスの姿を想像しつつ、坂道へと差し掛かった。
眼前はアスファルト。熱が顔を焦がす。歩くのを躊躇していると、山のように立ちはだかる急勾配の向こう側から、長細くて黒い巨大なものが顔を覗かせた。近視の目をそばめてよくよく観察してみると、それはみるみる人の形になっていった。坂を上りきったそれは、こんどはこちらへ向かって降りてきた。ひどく大きいように思えたがそれは目の錯覚だったらしい。やがて子供ぐらいの背のそいつがすれ違いざま、
「や、おじさん!今日も暑いね」
と言って通り過ぎていった。目も鼻もない。ましてや口すらもないのにそいつは真っ黒い空間から声を発した。

数ヶ月前からこんなものばかりが現れて仕方ない。
町を歩いていれば、群集に混じって五、六はみつけることが出来る。今日出遭ったような小さいのもいるし、黒いビルと見紛うような背の高いのも見たことがある。稀に犬の姿をしたものが歩いていたり、猫のようなものが塀の上で寝ていることもある。普通の黒犬、黒猫と違うのは、奴らには目も鼻も口もなく、また黒い毛の動物に特有の、あの光沢がみられないことだった。
最初はひどく驚いたが、やがて慣れてしまった。特に悪さをするわけでもなし、今日みた奴のように話しかけてくるものに出会ったのは初めての経験だったが、人間と例の生き物とは互いに不干渉の関係を保っている。というよりも、私以外の人間には彼らの姿が見えていないらしいのだ。妻もそうであった。
私は半年前から患いつき昨日まで入院していた。一ヶ月ほど前のこと、病室に入り込んできたそいつのことを話題にしたら、妻はなんだか不思議そうな、悲しそうな、妙な顔をした。私はてっきり妻も医者たちもあの黒いのが見えてるとばかり思っていたので、すこし吃驚した。それと同時に、このことは安易に人には語るまいと思った。キチガイ扱いされてまた別の医者に入院させられる羽目になってはたまらない。

この坂道は病み上がりの身体にはつらいが、それでも家に帰れるとならば堪えることが出来るというものだ。ナンダ!歩いてみるとそれほど辛くはないではないか。この坂を越えてT字路を右に曲がったら、半年ぶりの我が家がみえてくる。私は足をはやめた。そしてT字路を曲がったところで足を止めた。
何やら騒がしい。否、音は先ほどからセミの声しかしないのだが、大勢の気配を感じるのだ。それは懐かしい建物からだった。
家の前にはあいつの仲間が沢山いた。今までみたこともないほど大勢のあれが、玄関の前に群がっている。その中に細君の顔があった。奴らのことを知らないと言っていた妻は、今は黒い塊のひとつひとつに丁寧に挨拶しながら、家の中へ入れていた。
俄に恐ろしくなった。先ほどまで額を垂れていた汗が一気に冷たくなった。汗を拭おうと右手を顔に近づけて気付いた。

私の手は真っ黒だった。

◎モドル◎