◎長い夜


夕刻から降っていた雨晴れて、ちぎれ雲残る夜の空。空の破れ目からは満月が覗いている。
ところどころ破れ、剥げかかり、煤で汚れた障子戸は、月の光を湛えてまるで青行灯のようである。時折影絵のようにむこうを横切るのは狐か、鼬か。ここからは庭の景色は判然とせぬ。ただ虫の声に紛れて何かがひょ、ひょ、と啼いているのが聞こえる。それよりずっと遠くからは、夜の隙間を縫うような透き通った声で、犬がとおぼえしている。物寂しさは家の中にまで伝わってくる。
私は正座をしつつ、家の中を見渡す。高い天井にはこの囲炉裏の火も、外から差し込む月の寂光も届かぬだろう。梁も柱も何十年分の煤ですっかり真っ黒くなっているが、それにも増してそれらを黒く染めているのがこの闇なのである。
視線を真上に移す。この天井に底はあるのだろうか。今にもあの闇から得体の知れないものが降りても来そうな、そんな不安と恐れが真上の暗闇にはある。
「でな、その夜は」
不意の声にはっとした。そうだ、今私は人と話をしていたところなのだ。もうずっとこうして話を聞いているような気がする。それも同じ話を何度も何度も。老婆のしゃがれた声が語るこの台詞も私には覚えがあるのだ。次はおそらくこう続くに違いないのだ。
「きれいな満月が出ていてなぁ、ちょうどこんな晩だった」
心の中に思い浮かべた言葉を、囲炉裏を隔てたところで老婆がそっくりそのまま声に出した。炎が僅かな皺までも太い線で描き出しており、老婆の顔は一種不気味である。
私は長いことここに座り込み何かの話を聞いてはいるが、老婆とはまるで赤の他人である。祖母でも母でもない、親戚の誰かでもない、みたことのない老婆だ。それなのに何処かで遭ったことのあるような気がする。おそらく今までずっと喋っていたためにこんなことを感じたのだろう。だがそれならば、どうして私は他人の家で知らない人の話を聞いているのか。
「―――の話をしようかい」
最初の部分が聞き取れなかった。私はいつの間にか眠っていたのだった。まどろみを乱され此方へ戻ってきた時には、老婆は既に肝心の部分を言い終えていた。
「でな、その夜はきれいな月が出ていてなぁ、ちょうど」
夢の中でも聞いた覚えのある話だ。それも何度も何度も。だけど私は結末を知らない。最初の部分しか覚えていないのだ。
「こんな晩だった」
夜が褪める様子は一向にない。長いこと夢の中に居たらしいが、一体いつから眠ってしまったのだろう。確か私たちは囲炉裏を囲んで茶を飲んでいた。すると不意に老婆がこんなことを語り出したのだ。
「―――んだ晩の話をしようかい」
顔を上げると老婆が居た。
「でな、その夜はきれいな月が」
青い障子戸の向こうからとおぼえが聞こえる。横目ながらも、時折小さな獣の影が縁側の廊下を駆けてゆくのが分かる。何処かでみた光景だ。目の前でゆっくりした声で語る老婆。これも私には見覚えがある。
今見ていた夢の中で、確かにこの老婆をみた。しかし私の知り合いではない。知っているような気がするけど、家族や親類の顔をひとつひとつ思い出して確かめていっても、こんな顔をしている人間はいないのだ。
なのにどうして私はここに居るのだろう。嗚呼、さっきもこんなことを考えたぞ。だけどこの老婆はこれから初めて語り出すのだ。頃良くも雨も晴れてやかましさがなくなった。老婆の話を邪魔するのは、犬のとおぼえと虫の声、そして変な動物の発するひょ、ひょ、という音だけだ。
囲炉裏の火にぼんやりと照らされた顔がゆっくりと口を開く。そしてこれから語られる話は私も良く知っているはずなのだ。

「お前が死んだ晩の話をしようかい」

◎モドル◎