◎眠れる神


太古であり遥かなる未来でもある時、深淵であり縁でもある場所。すべての存在は闇の中に包まれ、在るのは只住民どもの気配のみである。数多の気配は時空のあちこちに現れたり消えたりしている。この世界は有と無の、二つの単純な状態だけで表されるのだ。あらゆる感情も学問も、元を辿ればただの「0」と「1」の集合体。あたかも泡の如くにて、それは儚く脆い。
私もまたそのようにして生まれた。生まれつきただ一つの役割を背負って。時の作用は胞子の成長を急激に促し、想像の範囲外のものをも感じ取ることができるように特殊な感覚器官を肥大させ、複雑に発展させてきた。その目ならぬ目、耳ならぬ耳を以て、一人の「演奏者」として彼の姿を見守ってゆくために。

嗚呼、あたかも母親に抱かれた赤子のように、彼はすやすやと心地よい寝息を立てている。役目を与えられた私には彼の一挙一動が手に取るように分かるのだ。私はまだ彼の瞳の色を知らぬ。何故ならばこの役目を貰った時にはすでに、彼は深い眠りについていたのだから。
その様は無垢であるようでいて、果て無き悪意を孕んでいるようでもある。静けさは終末の仮の姿だ。「彼」という殻に包まれた破壊のエネルギーは、必ず起こるときが来るであろう終末に備えて内部で圧力を増しつつある。

ずっとそうしてきたように、私は触手の生えた腕で楽器を奏でる。我々の存在を知覚しているであろう誰もが、この行為を無駄なものであると思うことだろう。何故ならば、我々のたった一人の聴客はずっと居眠りをしたままで、この音楽を聴くことが永遠にないからだ。だが私はそのような意見には異を唱えたい。そこにいる彼がこの曲を聴く必要はまったくないのだ。ただ演奏するという行為が彼を楽しませ、夢を見させる効果を持っているという事実さえあれば。ほら、彼が笑っている。もっと、もっと、と私を急かす。
触手は尚も楽器の表面を撫で回す。円筒の側面についた大きさの異なるいくつもの突起を、順序をかえながら交互に押しつ引きつすると、それがすなわち音楽となってゆく。翅をもて時空を飛び歩きながら、彼のためだけに我々は音楽を奏でるのだ。

彼は相変わらず悠長に夢をみているらしい。それは我々がここに存在しているという事実からも明らかだ。
彼の夢――それはここなる大宇宙の夢だ。あの閉じられた巨大な瞳は、眠っている彼自身を凝視するためだけに存在しなければならないものだ。或いはそれ以上の機能は元からないのかも知れぬ。
夢の中、彼自身が見つめる彼もやはり眠っている。その寝床の周りには、翅を生やし触手にまみれたものたちがしきりに飛交い、或る者は新しく生まれ、また或る者は役目を終えて消えてゆく。楽器を奏でるもの、歌うもの、それぞれ行うことにわずかな違いはあれど、みな彼の夢の彼を起すまい、夢を絶やすまいとしているのだ。その彼の夢の中の彼の夢にはまた眠っている彼と、その夢を見守る我々が居り――
こうして夢は果を知らぬ入れ子構造となって存在している。我々のいる此処なる場所も彼のみる夢のひとつに過ぎないのだ。だがその一つでさえ欠けてはならぬ。もしも、或る層の夢の中で、或るひとつの彼が目覚めてしまったら――

ふいに仲間達が騒ぎ出した。

この冗長なる夢の世界を終わらせようと、外なる力が加わり始めたのだ。自分の外部の世界にはまるで盲目の彼は、敵対者に対して何らの抗いも出来ぬ。それは彼の夢に封印された我々とて同じことだった。何処とも知れぬ夢の階層の果て、無知蒙昧なる彼に比して圧倒的なる光の力が訪れる。嗚呼、みるみる気配が消えてゆく。多くの奏者たちはすでに演奏することができなくなり、ただ私と他の少数の者だけが、宇宙の中心に向かって虚しい音楽を奏でているだけだった。そんな私もすでに触手を幾本も失いつつあった。
嗚呼、この暗黒の世界の只中に、ついぞみえなかったものが現れようとしていた。混沌の中央にある彼の巨大な眼球は――長い眠りの為に分厚い目脂の層によって封印されていた眼球は、今我々の知覚できぬ、透明なる天使たちによって強引にこじ開けられようとしていた。薄れゆく意識の中、私は彼の名を叫んだ。嗚呼、吾らがとこしえの友よ!吾らが現世たる夜の夢よ、汝が名は……

◎モドル◎