◎来訪者


 その夜、いつもと違つた匂ひのする青畳の間の中央に、ぽつんと置かれた縦長の箱の蓋がほんのわずかにずれていて、そこから黒いものがふわり、と飛び去つてゆくのをみた。蝋燭の火が小さく揺れた。箱の中には色とりどりの花に埋もれて叔母が眠つてゐたが、あとで覗いてみると温もりさへないその中は空つぽだつた。
「こうもりよ」
 その少し前、庭先で三輪車に乗つてゐた僕に叔母が言つた。
 まだお日様がちよつとだけ出てゐるといふのにまう寝巻きを着てをり、骨と皮ばかりの痩せた透きとほる指で近くの空を指した。夕焼けのグラデーシヨンの只中を行き来する飛行の歪な生き物は、まさしくその黒いものとおんなじだつた。
「人だつてあんな風に飛べたらいゝのにね」
 その時の叔母はまるで知らない女の人のやうで、僕は少し寂しくなつた。
 叔母は蝙蝠になつたのだ。僕は思つた。
 それから夕暮れの空に蝙蝠を見るたび、あれは叔母ではないかと考えるやうになつてゐた。三輪車を近所の子に譲り、背中の赤いランドセルを降ろす日が来ても、その考へはなくならなかつた。一度だけ父母に話してひどく叱られたことがあるので、それ以来この話を人前で喋らないことにした。さういえば、父と母が叔母の話をしてゐるのをみたことがない。それは叔母があゝなる前からさうだつた。
 そんな叔母が僕に会ひに来たのは、丁度一週間前のことだ。それから毎晩欠かさず僕を訪れる。今だつてホラ、風もないのにガタガタと立てつけの悪い窓ガラスを叩く音がする。それからカーテンの隙間をちらちらと、繰り返し横切るものがある。迎へてあげなければ。いつものやうに。
 振動する窓ガラスには、闇へ闇へと近づいてゆく僕が映つてゐる。その顔はあの夜の叔母と良く似てゐる。

◎モドル◎