◎夜桜


そもそも夜明けと夕暮れに如何なる違いがあろうか。
いずれもあの忌々しき太陽が、山の端にまどろむ時だ。それが東であるかかはたまた西か、斯様なことは然程気にすることはあるまい。
だが私はこの夕暮れのひとときを愛する。何故ならば、夕刻とは吾々にとっては始まり、身に纏うエナジイの兆であるからだ。朝であっては意味がないどころか身を滅ぼしかねない。祖父などはこの時間をも恐れていたが、夕刻の太陽に力のないことは私が身を以って証明した。実際のところ、この白い肌がほんの少し日に焼ける程度で健康には然程害はないのだ。故に、今こうして暗い寝所から目覚めた私は、この世を四角に切り取った窓の際で、来るべき夜の予感に胸を躍らせているのである。
一番星があがる。蝙蝠が、この家の屋根の下からぱらぱらと紫色の町へ飛び立つ。道を歩く子供を連れた女は買い物袋に葱を覗かせている。ここは二階だが、何処からともなく芋を蒸かす臭いが漂ってくる。
網膜の上でそれらを勝手に躍らせた後、机の上に置かれた茶色い紙袋へ手を伸ばした。昨夜使用人に買ってくるように言いつけておいた書籍が二冊、袋の中には入っていた。そのうちの一冊――これは文庫であった――のページを捲る。
作者の名前は梶井基次郎。もうずっと遠い昔にこの男の書いた「檸檬」という短い小説を読んで以来、私は彼の作品に触れようとはしなかった。嫌いだったわけではない。ただ、その頃は探偵小説に没頭していたために気を留める余裕がなかったのだ。それがこのごろになって「檸檬」の記憶がまるで蝉の背から生える寄生菌類のようにぐんぐんと頭をもたげてきた。使用人に基次郎の作品集を買っておくように言いつけたのはそのためだった。
ぱらぱらとページを捲っていた私は、一刹那に流れた或る一文に心惹かれた。

桜の樹の下には屍体が埋まっている!

「桜の樹の下には」という題のその短い散文をあっという間に読み終えると、私は深いため息をひとつ、それから本を机に戻した。
果たしてこれは、この手の小説家に稀に備わっている幻視による光景だろう。グロテスクなまでに鮮やかな描写が眼前に展開され、それは眩暈の時のように私の内部を揺さぶった。そこから立ち直った私は俄かに恐ろしくなり、慌てて本を閉じたのである。
嗚呼、桜の樹。この小説家の妄想の通りならば、彼女たちも吾らと同じではないか!そのたとえようなき美しさは血の犠牲の上に成り立っているのか。

馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪らなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚めて、その液体を吸っている。

私の祖父が彼女たちの住むこの国の土を踏んだとき、彼は同族はいないと言った。もし祖父が梶井基次郎を知っていたのであれば、この認識も大きく変わったことだろう。
彼女たちと同様、私の種族もその身の永遠という名の美を保つために血を欲してきた。限られた夜という漆黒の時間の中、先祖たちも命がけだった。朝の陽を浴びて死んだ者や、人間たちの返り討ちにあって心臓に杭を打たれた者も少なくないのである。人々は吾々を恐れ、伝説や文学の中で悪魔と同等なものとして扱ってきた。だが果たして悪魔は私達だけだろうか。歴史という名の一綴りの書物を読み解くとき、私はそこに墓場の土の匂いとともに、鮮血の、あの鉄のような芳香を嗅ぎ取るのである。かつて幾度となく無益な血の犠牲を払ってきた人類の繁栄の中にこそ、彼らの忌み嫌う魔王が潜んでいるのではないだろうか、と私は常々考えていた。
季節は折り良くも彼女たちの最も美しい状態がみられる春だった。私は外套を羽織ると、そのまま窓から夜の街へと飛び立った。
川沿いには満開の桜が並んで立っていた。風が川の上流から下流へ走ると、それが桜の枝枝にも伝わってざわざわと揺れる。私の肩にひらひらと落ちてくるものがある。その白い花弁にほんのりと湛えた赤は、かつてお前の足元で死んでいった者たちの血か。今のお前たちの老婆のような膚に切りこみを入れてみたら、琥珀色の液体の代わりに勢いよく血が噴出すのではないかしら。こんな空想もしてみたくなる。どこまでも続く桜並木。彼女たちのざわめきに誘われるように、私はゆらりと歩き出した。
向こう側から誰かがこちらへ来る。女だ。長い黒髪を振りまき、その隙間から覗く白い膚が桜と同じように街灯に映え、薄ぼんやりと発光しているようにさえ見える。女の瞳の色が分かるところまで近づいた時、吾々は同時に立ち止まり、そして―――
風が黒髪を吹き飛ばした時、着物から伸びた女の白い首筋が顕になった。そのときにはもう私の手は女の肩を掴んでいた。一瞬にして雪の原に二輪の薔薇が咲く。甘美な芳香が一層強烈になる。気だるさが唇から全身を駆け巡り、眼球を女の膚が覆った。このままでは正気を保っていられない。こんなはずではなかったのだ。女は…桜……血を…………。


川沿いの桜並木は大勢の花見客で賑わっていた。
桜の樹の下に集う者はみな、人が変わったように浮かれ、踊り、大きな声で騒ぎ立てている。誰もがこれをアルコールの作用であると見なすだろう。彼らの真上に咲く薄赤色の花の魔力であると看破する者は誰もいない。或るひとつを除いての他は。
それは花見の人々の群れから少し外れたところの、一本の美しい桜の樹の下。雪のように覆いかぶさる花弁の下で今にも死にそうにしていた。
(蝙蝠のような屍体……。)
失われゆく意識の中で彼は、桜の根に絡め取られ血肉を貪られる自分の姿を想像した。そうしてついに息絶えた。

◎モドル◎