◎蠍の目


 あらゆるものが親しい友人と思えるような愉快な晩だった。酒場を出ると目の前を幽霊のように漂うオナガミズアオに誘われて、夜の街の裏道の裏の裏をふらふらとくぐっていった。人気の無い道を青白く浮かぶ蛾の翅だけを頼りにおぼつかない足取りで進んでゆく。やがて街灯もない真っ暗な通りに出た。多くの店がすでに店じまいの看板を出している中、一軒だけ弱弱しい明かりを吐き出す赤煉瓦の古めかしい建物があった。
 何かの店らしい。ショーウインドウの内側からは、蝋燭の小さな光がちらちらと、それでいて店いっぱいに広がって品物の影を映しだしている。並べられたそれらの商品をみても、ここがどういう店なのかがまるで判然としない。ふと頭上に看板をみつけると、そこには芸術家があえて素人くさいタッチを真似てみたような字体で「★×●」と店の名が書かれていた。アルコールのほろ酔い加減がまだ抜けきれぬ私は、普段は警戒して一切入らぬ類のこの店に、自分でも気づかぬうちに片足を入れようとしていた。

 アラベスク模様の、ガラス棒のいくつも垂れた暖簾をくぐると、狭い店の中にはところ狭しと様々な売り物が置かれている。複雑な彫り物の入った天体望遠鏡、顕微鏡――珍しい蝶の標本――ウサギやカエルのホルマリン漬け――見たこともないような奇妙な形の弦楽器――インドの神を象った置物――シュルレアリストの描きそうな奇怪でへんてこな絵画・・・私は何も言うことが出来ず、ただそれらの姿に見入ってしまっていた。
「お気に召された品物はございましたかな?」
 不意に声がするので驚いて後ろを振り返ると、部屋の隅っこのところに一人の老人がぽつんと佇んでいた。どうやらこの店の主人らしいが、まるで木彫りの像のようだと思った。黒いズボンに茶色いチョッキ、そして頭には薄茶色のニット帽。白い顎鬚を蓄え、布袋様のようなあどけない笑顔を少しも崩そうとしない。どうやら私が店に入ってからずっとこの部屋にいたらしいが、あまりに周りの景色に溶け込んでいたために気づかなかったのである。私は返事に困った。
「あの、その・・・」
 すると老人は心中を察したかのようにその笑顔をいっそう際立たせながら、
「まあ、好きなだけみていきなされ。ホホ、見るのはタダですからなぁ」
 とだけ言うと、古書や額縁に埋もれた小さな机の前にそっと身を屈めて静かになった。既にアルコールのほてりが抜けきっていた私は、何だか申し訳ないように思った。隣の大きな壷を一回り見てからそっと帰ってしまおうと思って視線を移動した時、一瞬妙なものが入りこんできた。
(おや、これは?)
 それは一見すると地球儀にみえた。だが普段みるものより一回り大きかったし、何より球面は墨で塗ったように真っ黒で、大陸も海洋も描かれていなかった。その球体の表面がぐらっと歪んだような気がした。気のせいだろうか、はたまたまだ酔いが醒めきっていないせいだろうか?もう一度目をこらしてみてみると、やはり黒い球体の表面にかさこそ蠢くものがあるではないか!
 それは一匹の生きているサソリだった。哀れな蟲は胸のところを標本用のピンで貫かれており、球面に留められていた。
「ちょっと、ご主人!」
 私が怒鳴るような声を上げると、老人は小さい目をめいいっぱいに開いてこちらをみた。
「あれ、お客さん、あんたも気づきなさったね。ここへ来る人はみんなそいつに驚かれるのさ。まあ他のものとはちょっと変わった珍しい代物だが、そいつは天球儀だよ」
「天球儀ですか?地球儀でなくて」
「そう。夜空を閉じ込めた球だよ」
 老人はよっこらしょと掛け声しながら椅子から立ち上がると、よぼよぼした足取りでこちらへ向かってきた。
「お前さんのみているそいつは、そのむかし血気盛んな男を一刺しであの世へ送った獰猛な奴でのぉ、わたしも捕まえるのに一苦労だった。ピンで刺してもまだ動いているくらい元気な奴だ。目玉のところが赤く光っておるだろう」
 老人の言うとおり、ピン留めされたサソリの目玉は血の様な赤で輝いていた。
「サソリだけじゃない、その球をよくみてみなされ」
 黒い球体には様々なものがピンで留められていた。ミニチュアの白鳥や蟹、瓶や竪琴、人間や怪物…それらがサソリ同様人形でない証拠には、彼らは球面に磔にされながらも微かに動いていた!
 私は老人に別れを告げることなく店を飛び出した。走って走って夜の街の裏道の裏の裏をくぐってゆくと、懐かしい街灯が明るかった。
「変なものを見た。いや、あれは夢だったんだ。そうだそうだ、もう一度飲みなおそう、酔っ払っちまってあんなもの忘れてしまうんだ!」
 自分に言い聞かせるようにひとりごつと、行き当たりばったりにバーに飛び込みマティーニを頼む。バーテンダーの手に運ばれてきたグラスには透明な液体が注がれ、中で猫の目のようなオリーブが踊る。強い酒にふたたび熱くなった私にバーテンダーが話しかける。
「おや、あなたの肩の、赤く光ってるそれは何ですか?」
右肩をみると、そこにはさっきみたものがいた。


 アンタレスは薄暗いバーの中で輝いていた。

◎モドル◎