◎蜃気楼


蜃気楼。

かいやぐら、海市、浜遊び、喜見城。
狐だま、狐松原とはその正体を狐に求めた故だろうか。或る書物には大蛤の口から吐き出す気だといい、また別の伝では蛟(みずち)の仕業だという。
もっとも、これらの伝説を本気にするのは馬鹿げたことに違いない。或る小説家は「不可思議な大気のレンズ仕掛け」と書いた。如何にも玩具的で愛らしい言い回しであるが、この言葉が最も的確かつ簡単に、その現象の正体を捉えていることだろう。

目の前には静かな海原。浜に小さく打ち寄せて、彼方の水平線から魚介や藻類の死骸を運んでくる。海岸線に沿って漂う磯の匂いと腐乱臭の混ざった臭いは、何処か懐かしく、それでいて大きな悲しみを孕んでいる。
ここには様々なものが流れ着く。海洋生物たちの成れの果てのみならず、船の破片、食品の容器、網、いつの間にか丸みのついた硝子片……。
これらは果たしてこの世のものなのか。波に揺られているうちにおぞましい姿に変容したそれら。朽木によく知った異国の文字を目にしても、今だけは不気味な模様としか思えぬ。
ひょっとしたら、いつもは存在しない、あの水平線の上に乗っている歪な町から訪れたものではないのだろうか。これらはすべて、大気の魔術による幻の副産物ではないのか。

するとあいつも―――

あの日も今日のように、彼方に見知らぬ町が浮かんでいた。
水平線よりも僅かに上の虚空へ足を下ろし、おぼろげに、まるで気体から成っているようにゆらゆら揺れているそれは、今日よりも遥かに高く聳えていた。
私が浜へ着いた時、恋人はすでに漂着物のひとつと化していた。ビニールシートの上に寝かされ、着ていた服は最後にみたそれと一緒で、苦痛も喜びもない表情をしていた。
艶のあった黒髪が海藻の塊のように縮れ、細い首に絡み付いている。砂にまみれた肌は生前より一層白く、むしろ病的な青みさえ奥底に湛えていた。海底の蟹や魚にでも啄まれたのか、手足の皮はところどころ剥けていて、桃色の肉が露になっている。濡れた服からは彼女の皮膚とともに、血が滲み出ていた。
「まだ若いというのに可哀相だなあ。自殺か」
「むこうの岩の後ろにあったらしい。夜中に打ち上げられたんだな」
「さっきまで蟹が体の上を這っていたそうだ。全部追っ払うのにやっとだとよ」
周りを取り囲む人々の姿は陰になっていて真っ黒だった。私にはそれが恋人の亡骸をあさろうとやってきたカラスの一群のように思えた。

―――幻ではないだろうか。

あの日、恋人は一人、此岸よりあちらへ渡ったのだろう。本物が現れれば幻はいらぬ。歪な町は、彼女を迎え入れる代わりに幻を吐いてよこしたのだ。恋人はまだあの町で生きている。冬だというのに冷たい汗が、頬の表面を伝わって首筋へ流れた。

揺れている町の向こう岸に、私はひとつの影をみつけた。
それはこちらに向かって手を振っているようだ。私も手を振り返す。すると影はよりいっそうはっきりと、その輪郭線を顕にしてきた。
艶のある長い髪、見覚えのある服から伸びる白い手脚、あの日とはうって変わって、恋人は笑顔だった。
「……あなたもこっちへ来ましょうよ」
今のは波のざわめきだろうか。しかしながら、目の前に広がる海原は依然平穏だ。
「……あなたも…ねぇ、こっちへ来て」
私はどうしてしまったのだろう。その音は、まるで懐かしい響きを以って脳髄を伝わる。
「……あたし一人だけじゃつまらないの……ねえ、お願い」
その一言が私の背筋を強く振るわせた。
今や一本の電柱のように、恋人は高く聳え立っていた。黒髪が潮風に揺れ、私の鼻先へふっとかかる。
これも大気のレンズによるトリックだというのか、或いは昔時の伝説が謳うように狐や大蛤のみせる幻覚なのだろうか。だがそんなことはもうどうでも良い。どっちにしろ、私のゆく道はもう一つに決まっているのだから。

水平線も海原もすっかり覆い隠してしまった恋人の影が、汗に濡れた首筋にそっと手をかけた。

◎モドル◎