◎月の旅人


俺たちはバーのカウンターに座っていた。
逆円錐型のグラスに、なみなみと注がれた透明の液体。水面には小さな氷の粒がひとかけら、スイスイと泳いでいる。妻の前にも同じものがあった。
「あなた、こんな悠長なことしてていいのかしら?みんなに遅れてしまうわよ」
無表情な顔の妻。ギラギラと輝くグリーンの目をこちらにむけ、幾千もの俺を映す。心配性なこの性格は出逢った頃からまるで変わっていない。
「ハハァ、お前はせっかちだな。もう一寸この気分を楽しもうじゃないか。それに他の奴らに遅れたとて、ホラ、目的地はあんなに近くに!」
毛深い腕で頭上を示した。そこには黒ばかりの空に、ぽっかり空いた大きな光の穴。
一体バーというのは、普段光に晒されたものが闇を求めて訪れるはずのものだろう。薄暗くて如何にも不健康、寡黙なマスターに殺し屋のように不機嫌な顔をした客の話しかける声ばかりが届く静かな場所なのだ。少なくとも前時代はそうだったと書物で読んだ。故に俺もそんな印象を持っていたのだ。だが、この店は、敢えてガラス越しにあの大きな視線を迎え入れている。ここのマスターは我々の性質をよく心得ているらしい。
「それもそうね。オホホホホ」
無表情に妻が笑った。俺も嬉しくなって背中の翅を震わせて笑った。

前時代、まだこの店にもコンクリートの屋根があった時代の人々は、文学や漫画といったような娯楽作品に次の支配者達の幻を描いた。一度図書館でみたが、どうやら奴さんたちはそれをイルカとかアザラシとかいった、自分たちと同じ哺乳類の仲間だと思っていたらしい。変わったものではトカゲなんてのもあった。知性はなかったとはいえ爬虫類も一度はこの星の覇者になった生物であるから、猿たちがそう考えるのも無理なことではないのかも知れん。あと我々に一番近い存在である、甲虫を次世代の人類と考える学者も居たようだ。
だがまさか、如何にもひ弱そうな俺達にお鉢が回ろうとは、猿もトカゲも考えもしなかったに違いない。結局は知性を持った者の勝利だったのだ。それゆえに猿どもは滅んでしまったが、破壊されたものを再生するためにも知性というのは不可欠なのである。
細長い身体に、風が吹いただけでも破けてしまいそうな四枚の透明な翅。我々は彼らの言うところの昆虫というものだった。我々の種族はその身体の矮小さゆえに、常に捕食者による命の危機に晒されてきた。
猿のある者は我々を不吉なものとして忌み嫌い(それは我々が昆虫であるという一点のみばかりではなく、我々の夜光体質も大きく関係していた)、偶々出くわせば鋭い声を発して仲間に助けを求めるか、或いは無情にも、彼らにとっては容易なことの一つである処刑を行うのだった。我々を殺害し、根絶やしにする為だけの研究も頻繁に行われ、様々なおぞましい道具が生まれた。我々にとっては、それらはまさに彼らの言うところの「悪魔」そのものであった。しかしながら、皮肉なことに我々を滅ぼそうと躍起になっていた当人のほうが、早くに滅び去ってしまったのである。
こうして先時代に人類と呼ばれた猿の支配が終わったが、我々の繁栄はこの時点ではまだ訪れない。人類の次にこの惑星の支配者になろうとする者は跡を絶たなかったのだ。彼らの存在を前にしては、まさか我々が次の人類になってしまおうとはゆめにも思わなかったのである。
ところがある日、偶然なのか必然なのか、変格は突然に起こった。俺達の先祖にふっと頭のいい者が現れてきて、いつも幅を利かせてた甲虫や他の動物どもを追っ払ったのである。俺達は前時代の遺物を利用し、或いは必要に応じて新しいものを発明してゆくことによって、全盛期のエテ公たちと同じような生活を手に入れた。

この店の天井がガラス張りになったのは、つまりそういうことだ。
俺達は光を求める。それも夜の闇の中に輝く孤独な光を。どうしてそんなものが好きなのかという疑問に答えられるものはまずいないだろう。生物学者や心理学者ならば尤もらしい理由をつけて何かしらのことを説明するだろうが、本能という言葉で納得できるほど我々は賢くないのである。
猿たちが作った「文学」だって我々に合わせて作り変えられた。
たとえば「〜は翅を震わせた」とか、「四本の脚で云々」なんていう表現が後から挿入されたのだ。それは我々が我々の文字で書いたものも同様だった。この小説を飛ばさず読んできた君達ならば、その実例を既にみたはずだ。尤も、歴史学者のために原文は博物館や図書館が厳重に管理しているが……
だが、広い宇宙からみればこんなことは些細なものに過ぎぬのだろう。我々もいつ滅ぶやも知れぬ。その時まで楽しく暮らしてゆきたいものだが、残念ながら世界の終わりなんてどうでも良いと思えるほどに、我々の寿命は短いのだ。あの日、我々に繁栄をもたらした突然変異という変格も、それを楽しむのに十分なだけの時間まではもたらしてくれなかったのである。
あの月が姿かたちを変えて十回ほど空に上がれば我々は死ぬ。だからこんな風習も生まれたのだろう。猿達は「飛んで火に入る夏の虫」などと言って嘲笑することだろうが……

「あなた」
妻の声に意識が戻された。少し飲みすぎたようだ。二日酔いで飛べませんでしたなどという結果に終わったら、残りの日々妻にどれだけ恨まれるか分かったもんじゃない。俺達は席を立った。
「もう皆さん行かれましたよ。この店もそろそろ閉めるとしましょう。私もあそこに行きたいのでね」
帰り際、マスターがそういって毛深い腕を天井に向けた。
「ホラみなさい!あなたがグズグズしてるからよ!」
妻が無表情に怒った。私はそれには答えず、マスターのほうに千の目を向けて言った。
「寂しくなるな。折角馴染みの店が出来たというのに。まあ俺達もこの店のカクテルを飲む機会はもうないのだがね」
マスターは微笑んだ。やはり無表情だった。
外に出て、新鮮な空気を大きく吸い込む。夜の冷たい空気がアルコールで火照った内臓を冷してくれる。毛深い妻の手を取り、バーの埃を被った翅をバタバタさせる。妻も同じことをしていた。
「それじゃあ行くとするか」
「ええ」
血の気が後脚にぐっとかかったかと思った刹那、俺達はもう雲のそばにいた。薄い空気に軽い眩暈を覚えたが、或いは酒の作用だったのかも知れぬ。
「こうして二人で飛ぶのも何日ぶりかしら?」
「さぁな。あいつが生まれてからは一度もなかったんじゃないかな」
「坊や、ひとりでうまくやっていけるかしら?アタシそれだけが心配なのよ」
「大丈夫だよ。俺達の遺伝子を受け継いだ子だ。きっと俺やお前のように、立派な翅を生やしてこの空を飛ぶことになるさ」
俺はそういって下をみた。
ぽつんぽつんと植物や建物がみえるが、あとは一面砂だらけの大地が広がっている。そこにいくつものすり鉢が空いており、月の光でそれぞれ形の違う陰影を作っている。あのすり鉢のひとつが俺達の息子のゆりかごなのだ。子供といえど、我々大人よりはずっと逞しいあいつら。すり鉢のいくつかには、前の時代で言うところの「人類」だった猿の末裔が落ちていて、するどいアゴを持つ息子達のドリンクになっていた。
妻の翅の筋で区切られた部屋の一つ一つがまるで異なる色彩で輝き出す。それはどうやら俺も同じようだ。やがて前方には同じような沢山の影が現れはじめた。出遅れた俺達だったが、どうやら皆に追いついたらしい。そのどれもが翅をきらきらさせて、一人、また一人と―――落ちていった。まるで流れ星のように、クルクルと。
「とうとう時間が来てしまったようね。アタシもなんだか疲れてきたわ。ネエ、なんでアタシたちって、こんな意味のないことをしているのかしら?」
「さぁな。でもそれが文明というものだろ?最後の時間をこんなことに使ってしまって、お前は後悔しているのかい?」
「イイエ。むしろその逆。最後の最後にこんなキレイな夜を迎えることが出来たなんて、神様っていうのも捨てたもんじゃなかったわ」
そう言う妻の顔は、心なしかいつになく美しかった。我々のいく先に浮かんでいるあいつ以上に。
「おいおい、猿のようなことを言うなよ」
妻は相変わらず表情のない顔で笑いつつ、言った。
「月へ着いたら、また二人でカクテルが飲めるかしら?」
「ああ、きっと」
その響きが最後だった。
二人の蟲は、最後にその複眼いっぱいにまるい月を焼き付けると、ほかの多くの仲間達とともに夜の底へ沈んでいった。

◎モドル◎