◎海蛇


 海は不穏な色を漂わせ、魚の鱗のような波を震わせていた。

 小雨そぼ降る日曜日の朝、海岸で一人の女を見た。
 ぼろきれのようなねずみ色の上着を羽織っているので老婆かと思いきや、よくよく見ると三十に至るか至らぬかといった女である。濡れた黒髪は海藻のごとく、女の顔に張り付いて表情を分からなくしている。その背中には赤ん坊が居るらしかった。雨が降っているというのに傘も差さず、黒ずみ平べったくなった砂の上に棒のように佇んで居る。
 雨に晒された赤ん坊が泣きもしないので、すれ違いざまに女の背中をちらっと覗くと、赤ん坊の顔は紫色に覆われ、女の右腕の横から飛び出した脚はひどく腫れていた。
「どうしたのですか、その」
 思わず声が出てしまった。余計なことをしたと思ったが、斯様な様子を見てしまえば赤ん坊をそのままにしてゆくわけにもいかない。女は半開きの目でこちらをみるや、ひび割れのある唇を小さく動かして答えた。
「私の児ですか」
「え、あぁ、はい」
 そのあまりの声の高さ、首筋に氷を当てるようなぞっとする響きに吃驚し、いらえもみつからぬままにしどろもどろな返事をかえしてしまった。女は云った。
「海蛇に噛まれたのです」
「海蛇ですって?この辺りには海蛇がいるのですか」
「ええ、赤と黒の縞模様のがいるのですよ。さきほど海面から身をくねらせて寄ってきて、この児の右足に食いついたのです」
 みるとその腿のところには二つの赤黒い点がついていた。視線を下に落とすと、皺がいくつも纏わりついた女の長いスカートの襞という襞から、雫がいくつも滴っていた。さらに異様なことに女は靴を履いていなかった。
 先ほどまで海に浸かっていたのだろう。背中に赤ん坊を抱いて。子供と一緒に心中でもするつもりだったのだろうか。だが、わが子が不意に海蛇に噛まれたことにより母親は自ら命を絶つのを中断した。私はそのような出来事を想像した。この母子をそのまま放って立去ることは出来なかった。
「それではお医者様に見て貰わねば」
 私が云うと、女は嘲るように答えた。
「ほほ、心配には及びませぬわ。長いのに噛まれてすぐに、私が傷口から毒を吸い出してやったのですから」
 ところが背中の赤ん坊の顔は先ほどよりもいっそうどす黒くなっていた。そして脚は腸詰のようにぱんぱんに腫れあがり、うっすらと青い血管がみえた。
「ですが奥さん、背中のお子さんを御覧なさい。顔色がどんどん悪くなっていくではありませんか。お医者様の治療を受けなければ死んでしまいますよ」
「ホホホ、心配なさらないで。そのうち腫れも引いて、顔色も良くなりますわ。私の家では海蛇に噛まれれば、いつだってこのようにして治しているのですから」
 女は横に切れた目を歪めながら笑った。にわかに背筋に冷たいものを感じた。ひょっとしたら女は狂人なのではないか。このままでは背中の子供も死んでしまうに違いない。
 私は無言で立ち去るふりをした。そうして数歩進みつつ持っていた傘を閉じて放るとぱっと振り向き、女のもとへ飛び掛っていって背から赤子を奪うや海岸を駆け出した。丁度その時俄に雨が強くなり、叫び狂う女の声をすぐさま掻き消した。
 私はいつの間にか抱えていた赤ん坊を背負って走っていた。激しい雨は赤子と我を容赦なく打ち、全身水に浸かったようにびしょぬれになった。どのくらい来たのだろう。女は追いかけてこないだろうか。あえて振り返ろうとは思わない。朽ちた舟があった。さっきもみかけた舟だ。もう何十回と見た気がする。この舟を過ぎると小屋があり、打ち上げられた木があり、そしてまた同じ舟がある。走れば走るほど歩幅は狭くなり、砂が足に纏わりついてくる。先ほどから視界に入ってくる赤ん坊の脚は、電信柱ほどに太くなっている。両肩から垂れる黒紫色の巨大な腕が地に届く。その重みにとうとう膝が落ちた。
 赤ん坊はますます大きくなり、私はその場に沈んでいった。水気を帯びた砂は私の身体を腰のところまで呑み込んだ。冷たい雨に打たれていた背中は、赤ん坊と共に黒い砂の下へと消えてゆく。手足の感覚はもうない。全身がただの物質に変わってゆく。

 意識の遠のく私の耳に響いてくるのはどしゃぶり雨ではなく、ぴたぴたという足音と甲高い女の笑い声…。

◎モドル◎