◎兎病
「あたし、兎病なの」 女がぽつりと云った。
或る満月の夜、私は部屋で女とワインを飲んでいた。
女は笑いもせず悲しそうな顔もみせず、一杯目のワインをいつの間にやら飲み干すと、突然こんなことを言い出したのである。
人形のような女だ。目の前の席にさもそこに居るのが当たり前のように座っているものの、どういう素性の女だったのか、まるで印象に残っていない。恋人だったのか妻だったのか、或いは妹だったのか友人だったのか。もしかすると、道ですれ違いに見ただけの女かも知れない。そんな女が赤の他人であるこの私の部屋にいることを考えると、たとえ美人でも少し気味悪く覚えた。
「兎病とは何だ?」
女は私の質問に答えずに、まつげの多い目をパチパチとしばたたせながら、カーテンに閉ざされた窓をみつめている。肌はランプの暖かな光を浴びてもなお、寒々とした青白い色をしている。
「今夜は月夜、それも満月の晩。あなたにもすぐに分かることよ」
口元に残ったワインが鮮血のように赤く映える。不意に立ち上がった女の、その髪の毛の隙間からのびた細長い腕が、夜を閉ざしていたカーテンを捲った。 いつになく明るい夜が広がっていた。ぽっかりあいた満月が、女の皮膚の色に近い青い光で空に輝いている。するとにわかに夜の前で女が悶えはじめた。驚きの声をあげる間もなく、さわり心地の良さそうな黒髪は白く変わり、身体がみるみる縮んでゆく。その代わりに両耳は植物のようにすっくとそびえ立ち、光の加減かと思った瞳は本当に赤かった。
窓の下の一羽の白兎を前に、私は途方に暮れた。この兎をどうすればいいというのだろう。もしこのまま兎が女に戻らなかったとしたら、私が飼うことになるのか。だが兎など育てたことは一度もない。この目で見たのも数えるほどしかなかった。餌は何を食べるのだろう?そうだ、兎といえば…… 私はその小さな獣を抱いて月の光のあたらない、奥の寝室へと連れていった。そして冷蔵庫から半分に切った人参を取り出すと、兎の口元へとそっと運んだ。
「ほら、食べろ」 兎は毛のない鼻先で人参を一嗅ぎすると、そのままもくもくと食べ始めた。指先までに短くなってゆく人参をみて、私は少し心地よく思った。
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