◎夜を飼う女


テスト勉強とは名ばかりの、冷房の効いた図書館でのぼんやりとしたひととき。物語の品定めも終わると何時間ぶりに外の暑さが懐かしくなって、入るときにはなかった二冊の本を腕に抱いたまま図書館を後にした。
真上にあった太陽はいつのまにか西の山の上に来ていて、図書館の前のだらだら坂をバニラアイスみたいな色で染めている。平屋から出てきたおばさんが打ち水をしている。真っ黒くなったアスファルトの上を歩くと、足元が涼しい。
外はさっきよりも暑くはなくなっていた。すると、まだしばらくは家に帰りたくないという気持ちが頭をもたげてきた。丁度ここに二冊の本がある。暗くなる前に一冊くらいは読めるだろう。速読には自身があるのだ。
公園には、まだわずかに小さい子供達が残って遊んでいた。何がそんなに面白いのかというくらいに嬉しそうな声を挙げて、彼らは砂の山を作っていた。
その子たちの遊んでいる砂場から少し離れたベンチに腰掛け、持っていた本の一冊を広げた。本のジャンルは幻想文学、といったところか。幻想の英訳はファンタジーであるが、幻想文学という言葉にはファンタジー小説とは異なる、少少硬派なニュアンスがあろう。僕は専ら「幻想文学」が好きだった。大袈裟な剣と魔法の世界を持ち出してくる長い長い物語よりも、我々の日常へ、まるで紙にインクが滲みてくるかのように少しずつやってくる非日常の小さな物語、或いは我々の日常の陰で息を潜めて旅人の訪れるのを待っている非日常の物語が好きだった。そして常日ごろより、出来ることならばそんな非日常に実際に足を踏み入れたいと考えていた。
「何を読んでるの?」
高く弱弱しい声が頭上でした。吃驚して顔を上げると、一人の女の人がベンチの後ろから本を覗き込んでいた。
すらりと背が高く、テレビで見るモデルのような人だ。長い黒髪が垂れ下がり、僕の右肩にわずかにかかっている。だがその美しい姿に増して特徴的だったのは、彼女の左目を隠している痛々しげな眼帯だった。
咄嗟のことに、僕はうまく言葉が出ずにいた。
「あ、えっと、その…本です」
本を読んでいるなんて馬鹿がみても分かる。なんてつまらないことを言ってしまったのだろう。だが、そんな僕を笑うとも馬鹿にするともなしに、女の人は再び尋ねて来た。
「どんな本なの?」
「しょ、小説。幻想文学です」
「幻想文学か。難しそうね」
「それほどでもないですけど」
いつの間にか、女の人は隣に座っていた。
「幻想文学って、ふしぎなお話のことでしょ?キミはふしぎな物語が好きなのね」
「はい」
「でもこういうお話って、みんなどこかの作家さんの考えた作り話でしょ。実際にこんなことってあると思う?」
「あるかは分からないけど、ないとも限らないと思います」
「そう」
女の人はそう言うと、小さく息をもらした。しばらく無言の時間が続いた。子供達の遊ぶ声と、木に留まっているムクドリ群れのざわめきだけが、公園にある音のすべてだった。
それにしても、この人はどうして見ず知らずの僕に話しかけてきたんだろう。彼女も本が好きで、同じ本が好きな僕を見つけたものだから話し相手に選んだのか、それとも……いや、それはない。決して美男子とはいえない僕に、向うから興味を持つ女性などありえないからだ。
沈黙を破ったのは女の人のほうだった。
「もしかしたらキミなら信じてくれるかも知れない。私の秘密」
「秘密ですか」

「私、夜を飼っているの」

言葉の意味が分からなかった。夜を飼うとは一体どういうことなのだろうか。僕はただ「はぁ」と答えるしかなかった。
「アラ、私の言ってる意味が分からないという顔をしているわね。無理もないことよ。でも、言葉の意味そのままなの。私はこの左目には、本当に夜が棲んでいるのだから」
彼女は立ち上がった。そして眼帯の端を指で摘みながら、先ほどより力強く、低い声で言った。
「キミだけに、私の飼っている夜をみせてあげる」
女の人は眼帯をめくった。そこには右と同じで二重の瞼の下にぱっちりと大きく開いた目があったが……

真っ黒だった。

瞳だけではない。本来白目のあるところもすべて、鴉の羽のように真っ黒だった。どんな絵の具を以ってしても表現し得ることはない、光をすべて遠ざけた時に現れるあの色……そう、暗闇の色だ。それは透明な球体が、眼窩の奥の暗がりを映しているようにもみえた。
よくよく覗くと、その暗闇の奥には白い微粒子が沢山みえた。それらはあるところではまばらに存在し、あるところでは密集しており、弱弱しくぎらぎらと光り輝いている。最初に白く見えたそれらの光は、実際には赤いものもあれば青いものもあった。強く輝いているものもあれば、今にも消えそうな灯火のように、弱弱しく光っているものもあった。
密集した粒子の中にも更にまばらなところと密になった部分とがあり、その密集地帯の中心には、更なる深淵が口を開いていた。それは今まで見てきた闇とは比べ物にならない、すべてのものを引き込んでしまうかのような真の闇だった。
いつのまにか身体も、意識も、僕のすべてがその闇と同じ色に染められてゆくのが分かった。頭のてっぺんから踵までの感覚が渦を巻くように混ざり合い、彼女の左目の中へ吸い込まれてゆく。嫌な気持ちはしなかった、というよりも何が何だか分からなくなっていた。
「あの闇の向うには何があるのだろう」
僕は細い糸となって、そこにある「夜」と同化してゆく…

「しっかりしなさい」
目の前には左目に白い眼帯をつけた女の人がいた。すると突然身体が震えだし、僕は身を竦めた。忘れそうになっていた「怖い」という気持ちだった。
「やっぱり普通の人にみせるべきではなかったわね。ふしぎな話が好きなキミに面白いものをみせてあげようと思ったんだけど、結果的に怖い思いをさせちゃったわ。本当にごめんなさい。そう、今のが『夜』なの。そしてこの『夜』を監視するのが私の役目。この世界って複雑にみえるけど、意外とカンタンな仕組みで動いているのよ」
女の人は僕の頭を軽く撫でると、僕の後方へと歩いていった。すぐに後ろを振り返ったが、彼女はもういなかった。さっきまで遊んでいた子供達もいなくなっており、いつの間にか辺りは暗く、公園の街灯の周りを大きな蛾が飛んでいた。

今、借りてきたもう一冊の本のページからちょっと目を離し、僕は窓に映った大きな月を見上げる。
この夜もあの女の人が飼っている「夜」なのだろうか。今この時に彼女は左目の眼帯を外し、自分の瞳とこの満月を重ねているのだろうか。そして、もしも彼女が死んだら…
僕は窓を開けた。すると俄に冷たい風が、月光を含んだ銀色の冷たい風が、首の後ろをするりと撫でると、街の方へと静かに通り過ぎていった。

◎モドル◎